執筆者:伴 正一【元中国公使】

第七 大戦争の中の長閑な日々

●遠洋航海

私が逆にもう2年遅く卒業していたら、「のどかな帝国海軍」など知る由もなかったでしょう。在りし日の大海軍、連合艦隊の威容を目の当たりにすることもなく戦争を終えていたに違いありません。

しかしミッドウェーで帝国海軍が致命的敗北を蒙った後でもあの戦争には、まるで嘘のような静かな時間帯があったのです。

卒業後、初めて乗った戦艦山城で、遠洋航海と称するトラック島までの研修航海が始まります。兵科、機関科、主計科、合わせて600名近く、卒業したての候補生が2隻の戦艦と1隻の巡洋艦に乗って悠々、トラック島を目指しました。海軍3校卒業生の8割くらいをゴッソリ、たった3隻の艦に満載して行くわけですから無用心もいいところ、まだ太平洋西半の制海権に自信ありと言わんばかり、大胆不敵の行動です。

トラック島からの帰りに艦内新聞で知るのですが、東の防衛最尖端、マキン、タラワが玉砕します。

ヒットラーはその直前に

「友邦日本は、数千マイルの彼方に敵を峻拒し続けている」

と演説していましたが、それで気をよくしていたのですから、負けることを頭から考えない国というものは恐ろしいものです。

マキン、タワラ玉砕の後も、それで緊張が高まるというわけでもなく、平穏な航海、以前と変らぬ艦内生活の日々が暮れていきます。

●二度目のトラック島

やがて新候補生全員は皇居参内、拝謁を済ませ、私は横須賀で修理中の巡洋艦愛宕に着任、第2期研修に入ります。

昭和18年の暮れ、空襲警報が鳴ったという記憶もありません。中岡前艦長戦死後いくばくも経っていない愛宕の一室で、静かに吉田松陰講孟箚記の筆写をしながら大晦日、満20歳誕生日の感慨に耽っていたのであります。

まもなくトラック向けに出撃、勇ましく出航用意のラッパが鳴り響きます。「椿咲くかよあの大島を越せば黒潮渦をまく」歌の文句の通りであります。

トラックには武蔵、大和以下連合艦隊の主力が、広大な環礁一杯に錨を下ろしていました。

覚えているのは夜、煌々と電気をつけ、甲板上での夕涼みよろしく、乗り組み下士官兵のため映画を上映していたことです。太平洋のど真ん中トラック環礁は、昭和19年の正月明け、まだまるで温泉地か保養地のようなリラックスムードだったのであります。

当然ながら風紀も、うぶな私にはどうかと思われる状況でした。先輩たちの女遊び見ていて、こんなことで戦争に勝てるだろうかと思ったものです。

でもその中には、ラバウルなど南の前線から帰投してホッとした、束の間の骨休めであった人、生きて再び帰ることのなかった人も少なくなかったはずです。

[思いを祖国の明日に馳せ、今日の戦さに散る]

そんな日が何時やって来るかも知れない。時にはそんな日の連続でさえある、熾烈な南太平洋の戦闘海域と、中部太平洋に位置していた根拠地トラックとはやはりどちらが欠けてもいけない持ち合いの相互関係だったのでしょうか。

戦争が始まって2年と少し経っていた頃のことです。

そんなトラックである日、紛れ込んできたような感じの敵偵察機を打ち漏らしてしまいました。

トラックにいた連合艦隊の主力が一斉にパラオへ移動します。

敵機動部隊の初攻撃で、残った艦船部隊が壊滅するのが、それから僅か10日後、同期から最初の戦死者も出ました。

中部太平洋の楽園はこうして一挙に、それまでの連合艦隊前進基地としての地位を失い、我が制海権すれすれの最前線と化してしまうのです。

●パラオ恋しや

突如トラックを襲った悲運をよそに、移った先のパラオはというと、昨日までのトラックそっくり、敵機の姿を見ることもない平和の別天地でありました。

私にとってのパラオは、今思い出しても「パラオ恋しや」の舟歌が洩れてくる、そんな桃源郷だったのです。

愛宕艦内にも平時の海軍の面影が残っていました。その一つに、今の日本人の戦争イメージからは想像もつかないような昼どきの風情がありました。

司令長官(後の”栗田艦隊”の栗田中将)が昼食の箸をとると、軍楽隊の演奏が始まるのです。勇ましい軍歌ではありません、荘重なクラシックなのです。

マキン、タワラが玉砕し、トラックがあれほどの打撃を受ける状況下に、海軍では第二艦隊の旗艦愛宕にまだ軍楽隊を乗せていたのです。

毎日のように軍楽隊の演奏のもとで食事をとる風景、みなさん想像ができますか。私のように音楽の素養のないものでも優雅な気分にだけはなったものですよ。

在りし日の海軍、その威容を語る懐かしの風景でありました。

休みの日がこれまた傑作、パラオで一番大きいコロール島の山登りが楽しみでした。余分におにぎりを作ってもらって、”お腰にさげて”という気分で出かける。パラオの子供たちがぞろぞろついてくる。まるでパイド・パイパー、日本流だと桃太郎の絵図です。

今になって思うと、その子供たちの中から大統領や閣僚が生まれているかも知れないんですね。パラオの子供たちにはいい思い出ばかりです。

第二艦隊艦隊会議の記録係もさせて貰って、戦局の大きな動きも頭では分かっていながら、こんなパラオにいては長閑な気分をどうすることもできません。

やがて太平洋戦争の天王山、空前絶後の大海戦の舞台になる海域にありながら、私はいかにも平和なパラオの雰囲気の中で、副官事務と庶務主任の仕事に精出していたのであります。

戦争というのは、戦国時代にあっても大名たちが毎日戦闘していたわけではないんすね。インターバルがある。その間に何年もの「平和の時」が入っていることさえ珍しくはなかったはずです。

日本の歴史でも世界の歴史でも、小説家が描くものに影響され、戦争と言えば戦いの連続のように思いがちですが、現実の戦争はそういうものではありますまい。国民全部が戦争をひしひしと身近に感じた大東亜戦争末期の主要都市無差別爆撃は、半年近く切れ目無く続きましたが、あれはもう、勝負が決まって止めを刺す行動の時期だったと見るべきではないでしょうか。

そのパラオも私が転勤命令を受けて去った直後、アメリカ機動部隊の猛攻撃を受けることになります。

私は幸か不幸か、そういう戦争の苛烈な場面をすり抜けてきた格好になっていまして、命を長らえていることが申し訳なく思うことが今でもよくあるのです。

私が乗った5つの艦艇のうち4隻が沈没し、後任者はみんな戦死しています。その4人が私を生かすために私の死場所だったはずのところへ転勤して来てくれたようなものなのです。
第八 この一戦

●一路決戦場へ

パラオで愛宕を退艦し、長崎で艤装中の駆逐艦霜月へ。佐伯沖での訓練が終わるのが、頽勢を挽回して戦局の一大転換を図ろうとした「あ」号作戦発動の直前でありました。

「タウイタウイ島向け出撃すべし」という命令なのですが、「おい、タウイタウイってどこだ」とガヤガヤ子供のようにはしやいでいた初陣霜月の出撃風景、私にとっては、咲く花の匂うが如き青春の一こまです。

タウイタウイ島を目指してフィリピンのスールー海に入った時、シンガポールに近いリンガ泊地を出撃して北上中の我が大艦隊に合流できました。

霜月は早速空母瑞鶴の直衛を命ぜられます。

全艦隊が燃料補給のためギマラス泊地に到着したころ、「あ」号作戦は既に発動されていて、関連軍機書類を旗艦大鳳へ貰いに行きます。

艦長のお供は、副官でもある主計長職務執行の私です。こうして私は最高の機密書類を艦長の次ぎに見ることのできる立場にいたのです。

分厚い軍機書類に目を通して作戦の全貌が分かって行く、その興奮といったらありません。敵撃滅の後、我が第一機動艦隊はラバウルに進出するとまで書いてある。血湧き肉踊らずにおられましょうか。

●敵機動部隊を求めて

翌朝はいよいよ敵を求めての 艦隊出撃 ギマラス泊地発進です。

名は第一機動艦隊でも実質はほとんど連合艦隊そのもの、海軍をこぞる大小の艦艇が次々と泊地を出て行く、その光景は壮観の一語に尽きます。

それまでに駆逐艦は随分消耗していましたが、戦艦や巡洋艦は昭和19年6月の時点では大部分が健在だったのです。空母もいったんミッドウェーで壊滅状態に陥ったものの、その後大鳳が竣工し、瑞鶴、祥鶴に仮装空母も加えると、かなりの規模のものに戻っていました。

それが陣容を整えて、いよいよ敵撃滅の壮途に就くのですから、万葉の歌さながら「御民われ生けるしるしあり」の思いに心が弾んだのも無理はありません。先程引用した

[想いを祖国の明日に馳せ、今日の戦さに散る]

というのは、この時の武人としての心境を50年後に回想し、第1回の戦史講話で披露させて頂いた自作の短句であります。

●皇国の興廃この一戦に在り

いよいよ6月19日、決戦の日がやってまいります。

真っ青な空、真っ青な海の中を行く空母瑞鶴、その飛行甲板上に次々と艦載機が運び上げられ、キラキラと朝日を浴びて輝きます。そして一機また一機と紺碧の空に舞い上がっていく。

各空母の艦載機が発艦を終え、艦隊の上空を覆い、やがて幾重にも銀翼を連ねて視界を去る。第一次攻撃隊の発進であります。

「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」の指示を表すZ旗が揚ります。

明治38年5月27日帝政ロシアのバルチック艦隊を迎え撃った日本海海戦から38年目、同じ旗流信号が旗艦大鳳の上に翻えるのであります。

さあ次は第二次攻撃隊です。発艦作業開始。艦隊上空での勢ぞろい。200機はいたでしょうか。艦隊全員の期待を背にして乾坤一擲の壮途に就きます。

その瞬間には神ならぬ身の知る由もなかったことですが、この偉観は私にとって、勝利への希望に輝いた眼で見る最後の海戦絵巻となったのであります。(続)

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