執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】

京都の西部に松尾神社にいたとき、後ろの方でお父さんが子どもに誇らしげに語りかけていた韓国人の会話が聞こえてきた。

「この神社は京都でも由緒ある神社で、大昔このあたりに住んでいた秦氏が祀っていたんだよ。秦氏というのは韓国からやってきた渡来人たちだから、松尾神社は韓国の神様でもあるんだ」

そのむかし、西日本から朝鮮半島の南部にかけて同じような風俗を持ち同じような言葉を話していた人々が住んでいた。当時の歴史を知る上でそう考えると分かりやすいことになる。故司馬遼太郎氏はそんなことを「街道をゆく」の中で書いていた。

中世以降の日本で影響力を誇った重要な神社が関西に6つあり、そのうちの5つが京都にある。賀茂、松尾、八坂、稲荷、石清水八幡宮。あとひとつは奈良の春日大社である。

桓武天皇が京都に新しい都を建設したとき、いまの京都盆地である山城国葛野(かどの)に勢力を張っていたのが、賀茂氏と秦氏だった。三方を山に囲まれた葛野の地には二つの水系が支配していた。賀茂川と桂川だ。二つの川は京都の南で合流、さらに南方で琵琶湖からの宇治川(上流は瀬田川)と奈良から来る木津川と一緒になり、淀の大流となって瀬戸内海に注ぐ。

ちなみに賀茂川と桂川の合流地点には巨大な水がめがあり、葛野の西半分は湿地地帯でもあったのだ。賀茂川は当時、現在の堀川を流れていて、この流域の北東部を支配していたのが賀茂氏で、西部を抑えていたのが秦氏であった。賀茂神社は字のごとく賀茂氏が祀っていた神様で、松尾神社の方は秦氏の祭神。秦氏はのちに豊穣を祈って伏見に稲荷大社を祀った。伏見稲荷である。

だから5つの重要な神社のうち、2つが渡来系の神さまということになる。西日本には朝鮮半島からの渡来人に由来をたどる多くの地名が残っているから、いまさらどうしたということになる。

神社のルーツや皇室の起源を朝鮮関東に求める歴史家も多くいるぐらいだから、それこそ古代史の素人がいまさらなんだ、とのそしりを免れないが、韓国人が「松尾神社が韓国の神さまでもあるんだ」と語っていた会話に言いも言われぬ思いがこみ上げてきた。

太古に同じような信仰をしていた人々が同じ中国の影響を受けながら片や儒教一辺倒の国家になり、もう片方は神仏混合へと向かい、まったく異なった国民性を育んでいった。その神仏混合の国が明治維新で神社信仰に里帰りし、満州民族が支配していた清国と朝鮮半島の領有を競った。

神仏混合の国はやがて儒教の国を併合し、神道でひとつの国にまとめようとした。古来、民族の興亡に宗教が複雑に関わっていた。支配された民族は必ずと言っていいほど被支配民族の宗教を強要された。だから神道の国も同じようにしようとした。

だが、儒教の国の人々を神道で染める作業は失敗した。失敗どころか逆に「恨」の念を植え付けてしまった。1500年の歴史はそれぞれに異なる風俗と言葉をもたらし、食生活にいたるまでまったく違う民族を生み出していたのだった。

「松尾神社が韓国の神さまでもあるんだ」という会話はそんな長い歴史を飛び越えて、故司馬遼太郎氏が表現した太古の日本と朝鮮半島の世界に私をタイムスリップさせてくれたような気がした。