執筆者:朝倉 渓【ジャーナリスト】

8月1日の堺屋氏の経企庁長官辞任すべしは、極めて同感です。あのニュースに接して、官僚機構の強さよりも人間の欲深さを感じていました。市井の評論家・作家として昨日まで毅然と行政を批判していた人間が、長官となるや人格の喪失と引き替えに守るべき地位とは何か。

単体の民間組織から国家まで権力構造の上位に上るに従って、自分であり続けるための信条を易々と売り払える人間性の不確定さ。しかし堺屋氏の精神構造と行動を自分レベルに置き換えた時、多かれ少なかれ誰でもが持ち合わせている精神構造であり、行動であるはず。

批判は簡単だ。己は批判を受けない場所を確保した上で、批判の対象となり得る者への批判を許されている事実そのものが民主主義を物語っており、また批判を受けるのは権力を持つ者の当然の責めなのだろう。

深い見識と博学に裏打ちされ、政府の愚挙、蛮行をペンの力で、ある時は講演で指摘していた物書きとして民間人の雄たる堺屋氏であっても、国の側に身を置き、権力を手にした瞬間に投げ売りできるほど人間の信念や理念など極めて脆弱なのもなのだ。

戦後民主主義に培われてきた偽りの性善説に、日本人は生きる拠り所を求め、己を平和主義者と信じることで気持ちよく生きようとした。「私は性善説に立っている」なんて凡そ馬鹿でも無い限り口に出来ない言葉を平気で発言する輩が学識経験者などと言って発言している姿に、何故嫌悪を感じないのか。性善説であり、平和主義者を疑問無く口にできる輩は無責任主義者でしかないように思われる。

そして日本版ビッグバン、日本版ブリッジバンクと同様のまがい物の日本版デモクラシーは、大衆が感じている本音を隠し、国を批判することでガス抜きをさせる巧妙な手口で、国民を操る政略なのだろう。何故、日本人は気づかないのかと問えば、戦後の平和享受に疑問すら抱かない我々の敗北であると言わざるを得ない。

そして堺屋氏を批判し、「信じていたのに、裏切られた」と思うことで、自らの類似性を無意識下で否定し、正義を語った振りをしているのが大衆ではないだろうか。所詮、堺屋氏が見せた人間性は、私たちと五十歩百歩であることを正直に認められないのは、堺屋の裏切りを認知した上で批判したら、その批判の矢は己に向き返り、少なくとも自分自身の内面性に気づかされるからである。だから自分とは遠く離れ、責任のないたところで堺屋氏を批判するぐらいが、大衆の本質なのではないか。

報道のどのページに、伴さんが書くような本音の解説なり批判記事があったろうか。社会の木鐸などと偉そうなことを言いながら、その実は行政なり、企業なりに取り入ってネタを貰うのがせいぜいと言った日本の報道に本当のことなど書けるはずがない。

萬晩報は既に趣味の域を超えています。そして読む者を納得させる力を持っています。萬晩報の最後があるとすれば、これまで通り出版という形で終焉するのですか。伴さんの近い将来について願わくば、「萬晩報を超えて・・・」ということです。

では。