アメリカの膨大な海軍拡張計画を報道しなかったマスコミ
執筆者:中村 巧【外国船級協会(プサン在住)】
ロンドンから関空経由でプサンへ帰ってきた。会社の会議の後で同僚のノルウェー人たちと喫茶店で語らっていたとき「なぜ日本はアメリカとあの無謀な戦争をしたのか」という話題に発展した。
●1938年に日本海軍が驚いたアメリカの膨大な海軍拡張計画
全員が造船学の専門家だから「そんな話は始めて聞いた」と私の説明にびっくりした。私は、アメリカが27000トンの空母「エセックス」の公試運転(完成)が1942年の12月31日であったことから説き落とした。この船の起工は少なくとも1938年には始まっていた。当時の軍艦の工事期間は最低でも4年掛っていたはずだからである。
戦争中に「エセックス」クラスの空母は20隻造られ、太平洋戦争での日米海軍に決定的な戦力差ができた象徴的出来事だった。つまりこの後、日本がアメリカにこの戦争に勝つ可能性が全くなくなったと言う事だ。真珠湾攻撃は1941年の12月8日だから、アメリカの海軍軍拡が真珠湾攻撃で始まったわけではなくはるかその以前に始まっていたことを物語る。
1938年ごろの時点で帝国海軍は、1944年になれば日本の海軍力がアメリカの3割以下になることが分かっていたはずだった。なぜアメリカが日本海軍の予想もしない大軍拡を始めたのかといえば、それはひとえに1935年に日本側が一方的にワシントン、ロンドンの海軍軍縮条約を破棄したからだ。その後支那事変や第二次世界大戦の勃発によって当時の上院議員であったカールビンソンやスタークによってアメリカ海軍大軍拡計画が始まった。
●風化させてはならない米国を見くびった50年前の失敗
1941年になると中国大陸をめぐって日米交渉が始まり、その年の9月には陸軍の仏印進駐により対米開戦が避けられそうになくなったとき、陸軍の横車に逆らって海軍としては戦争が出来ませんとはいえなかった。何しろあの軍縮条約破棄のときに陸軍は心配して「本当に大丈夫だろうな」と念を押していた。海軍としては、アメリカの拡張案にびっくりして陸軍以上の軍事予算を取っていた手前、いまさら「見込みが外れた」と言うわけにはいかなかった。
海軍が自らの失敗を隠す手段は戦争に突入して、いちかばちかの掛けをする以外になかった。1941年の時点では日本海軍力のほうが少しばかりアメリカ海軍より有利だった。ただしたった1年間の猶予だった。
アメリカは日本と戦争をしたがっていた。日本と戦争したらこの圧倒的な戦力差で勝つに決まっていた。ドイツと戦っているイギリスを助けたかったが、ルーズベルト大統領の選挙公約によってアメリカからドイツに宣戦布告できる状況にはなかった。日本の陸軍も戦争をしたがっていた。そして海軍が戦争に乗り気でないのも知っていた。海軍だけが戦争を始めても勝つ可能性が極めて低い事を知っていたが、この間の事情によって陸軍の開戦の要求に同意してしまう。陸軍のでたらめさはさておき、アメリカの艦船建造能力を見誤った海軍軍人の頭の構造はどうなっていたのか疑わざるを得ない。
そしてこのことを国民に何一つ公表しなかったマスコミの責任も重たい。ワシントンとロンドンの軍縮条約締結のとき加藤寛治以下の艦隊派と呼ばれた強硬派とそれに結託した犬養毅、鳩山一郎以下の政治家とさらに彼らのちょうちん記事を書き続けた大新聞のおかげで例の言葉が一人歩きし始めた。「統帥権干犯」。当時の新聞記事を読むと犬養毅の口からこの言葉が出てきているのにはびっくりした。彼もまた亡国の政治家だったのだ。
この強行派たちは対英米6割で飲まされた条約に不満で堪らず、対英米7割でないと国は守れないといって国を滅ぼしたわけだ。いかにアメリカの国力を侮っていたかあきれるばかりだ。司馬遼太郎氏は「この国のかたち」という本の中で、主に陸軍参謀たちの出鱈目ぶりをこの統帥権に関して述べているが、日米開戦になった決定的な要因は海軍軍人の無責任さにあったと私は思う。
しかし当時のマスコミもその罪は決して許されるものではない。陸海軍人と言う官僚たちは消えてなくなったが、マスコミと政治家がこの間の責任を追及されたとか自己批判したなどとは寡聞にして聞いた事がない。
以上の話は主に池田潔氏の「日本海軍はなぜ敗れたか」と、五味川純平氏の「御前会議」を参考にした。太平洋戦争は50年前の出来事とはいえ、その失敗の体験はわれわれ日本人にとっては決して歴史のかなたに忘れていいことではない。