執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】

日本の工作機械業界が息を吹き返している。円安によって価格競争力を復活、アメリカと欧州向け輸出好調に支えられてピーク時の年間生産1兆5000億円に迫ろうという勢いである。数年前まで年間受注が3000億円前後であえいでいた同じ業界とは思えない変貌ぶりだという。唐津一氏の日本産業擁護論には与しないつもりだが、産業の基本である機械産業がもう少し見直されていい。

●製造業王国日本の背景にあった工作機械の飛躍

経済的成長の過程でアジア各国が多少誤解したのは、組立産業と機械産業の違いだった。大規模な組立産業が次々と国内で生まれるのをみて近代化が進んだと勘違いした人々が多かった。1960年代の日本がラジオ、テレビから自動車まで組立産業が軌道に乗ったとき、技術者の頭を悩ませたのが、金型を作る技術である。金属やプラスチックを削ったり、穴を空けたりする技術はミクロンの世界の精度が求められ、そうした工作機械の技術ではどうしても米国やドイツにかなわなかったからだ。

そんな日本が1980年代に世界に冠たる工業製品の製造王国となったのはまさに工作機械の飛躍的進歩のおかげといって過言でない。そして、その進歩を後押ししたのはNC(数値制御)という工作機械へのコンピューター技術の応用であり、ロボット技術の確立であった。

いまでもNC機械やロボットの生産こそはいまでも日本が世界をリードし、数年前の円高時にも高い価格競争力を維持してきた。アジアの成長も実は高度で精密な日本の工作機械を使ってきたからこそ高い品質と信頼性を持って世界に通用してきた。マレーシアのマハティール首相がお忍びでよく東京・大田区の中小企業を訪ねて技術供与を求めた話は有名である。シンガポールや香港などがようやく日本産業の強さの秘訣が分かりかけた矢先にアジアは不幸にも通貨危機に見舞われたのである。
●NC工作機械の草分けだったファナックの稲葉氏

10年数前、ロボットがロボットを作る無人工場が山梨県の富士山の麓に出現した。フォナックというロボット製造企業である。その会長を務める稲葉清右衛門氏が1956年、電話機や電話交換機を作っていた富士通の技術者だったときに、米国のマサチューセッツ工科大学で開発されたNC技術をいち早く採り入れた板金の穴空け機械を生み出した。NC工作機械の日本の幕開けだった。

当時、日本の工場にある高級な工作機械のほとんどは米国やドイツ製だった。1960年から1964年までの5年間の工作機械の輸入は1500億円に達し、輸出はたった174億円しかなかった。本田技研工業も新日鉄もみんな輸入機械でもの作りに熟練していた時代である。現場からは「どうしても輸入機械にかなわない」というため息ばかりが漏れていた。

工作機械は伝統的日本のお家芸のように思われているが、そうではない。自動車のドアの締まり具合やプラスチック容器の気密性など欧米の製品に遅れを取っていた背景には工作機械の技術的遅れがあった。通産省も業界の技術レベル向上のためにてこ入れしたがことごとく失敗した。

日本の工作機械業界が発展のきっかけをつかんだのは伝統的工作機械ではなく、米国に登場した新しいNC技術の導入だった。新しい分野では同じスタート台に立てたからだ。1990年代の台湾のパソコンの発展と似ている。16年後の1972年、稲葉氏の部門は富士通から独立して富士通ファナックを超優良企業に仕立て上げた。いまでこそ多くのロボットメーカーが出現しているが、当時としてはハイテク日本を誇れる数少ない企業のひとつだった。

●米国生まれのベルトコンベア作業をロボット化した日本

自動車工場に大量のロボットを導入したのは日本が先駆けである。特に溶接や塗装など3Kといわれる職場はあっという間にロボット化した。人間がつらい汚い仕事から開放されただけでなく、精密で均一な加工を可能にし、工業製品の精度を高めた。1970年代の後半から1980年代に前半にかけて経営的には省力化や省人化による大規模なコストダウンが進んだ。

コンピューターは単なる電子計算機から電脳への役割を変えていく時代を先取りした日本の製造業は10年余で世界の最前線に立つことになる。しかしそうした革新性は長続きしなかった。なぜならば工作機械の革進性はものを作る人や国を選ばなくなったからである。

かくしてアジアでも日本と同じ品質のものと作ることが可能となり、日本の工作機械がアジアの発展の礎となった。うそだと思う方はタイにあるミネベアの工場をご覧になるといい。日本を上回る高性能の工作機械が何百台も稼働しているはずだ。

●東芝機械ココム違反事件の本当の意味

工作機械は機械を作る機械という意味合いから「マザーマシン」と呼ばれる。米国で開発された基礎技術が日本で開花したといっても過言でない。1980年代になるとメイド・イン・ジャバンのNC工作機械は欧米に大量に輸出されはじめた。やがて繊維や鉄鋼、自動車と同様、米国から輸出自主規制を求められた。単なる工業製品の輸出と質的に違っていたのは「マザーマシン」であったことだ。

米国では国防上の理由から輸出自主規制を求め、1987年には東芝機械によるココム違反事件も発覚した。機械を作る機械までメイド・イン・ジャパンに置き替わるという恐怖観念が米国政府を動かした。ソ連の潜水艦の水中でのプロペラ音が米国の音波探査機で追跡できなくなったのは東芝機械がソ連に輸出した加工機械によってプロペラ性能が飛躍的に向上したからだというのが米国の言い分だった。

民生用技術の高度化が米国ペンタゴンの虎の尾を踏んだという象徴的な事件で、親会社の東芝の会長と社長が管理責任をとって引責辞任した。日本の工作機械が冷戦下では極めて重要な戦略物資として注目されたことは逆にピークを迎えた日本の工作機械業界の飛躍的進歩を実証する場面でもあった。

このココム違反事件と呼応して進んだ円高によって日本の工作機械メーカーは相次いで生産を海外に移転、輸出から現地生産へと大きく方向を転換し、国内生産は3分の1以下の水準にまで落ち込む。韓国や台湾勢の追い上げもあり、バブル期に旺盛だった国内設備投資の勢いが衰えた。国内では、自動化やロボット化の進展でこれ以上の省力化投資は投資に対して効果が現れなくなったのも事実だ。

日本のNC工作機械業で武装した欧米企業の生産現場がやがて日本並みの生産性を身につける時がやってくる。