執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】

1998年04月03日(金)付の萬晩報 「サインで銀行口座をつくってみよう」には海外からも多く感想をいただきました。読者のみなさんへの参考にその中からいくつかを掲載します。

●はんこの方がサインより書類を偽造しやすい
はんこ社会で生まれ育った日本人にとっては、自らの書類に自らはんこを押す場合には、少なからず、それに伴う責任を意識するものだと思います。「サインに比較してはんこの方が書類を偽造しやすい」ということではないかと思います。はんこさえ手許にあれば、社長にお伺いをたてることなく社長名の書類を作成することができてしまうということです。

思い出したことがひとつあります。それは、大学の法学部での授業中に聞いた話なのですが、日本の警察は、普段、はんこなどを持ち歩いているひとが多くないのをいいことに、スピードや駐車違反で捕まえたひとたちから指紋を集めているのではないか?ということです。拇印がはんこを持ち合わせていない場合の代用でしかないにも関わらず(刑事訴訟規則61条1項)、「はんこがありますから、はんこ押します」と言っても聞き入れてもらえず、なにがなんでも拇印を求められるようなのです。

実際に、自分で試してみたことがありませんので真偽のほどは分かりませんが、これが本当だとすると、人権に関わる大きな問題ではないかと思っています。なにかの折りに、これについても調査して、また、萬晩報に掲載して戴ければ幸いに思う次第です。それでは、これからも私たちが気づかない話題を、鋭い視点からえぐっていってください。【マレーシア在住】

●スイスで体験した日本企業の印鑑の話
4月3日付けの、いわゆるハンコ社会の問題について、こちらで最近経験したことをお知らせします。

ある日本の中堅企業の欧州現地法人がスイスで社債を発行することになったのですが、この場合、欧州資本市場向けの書類(目論見書)に当然代表取締役である日本の本社社長の署名(サイン)が必要になります。ところが現地の日本人取締役達はこの欧文の書類に、なんとか日本の社長印だけでいけないものかと、こちらの弁護士などに特例の履行を求めているのです。

なぜサインではなく、印鑑にこだわるのかという理由なのですが、日本の本社社長にサインを求めると、改めて案件を検討し、せっかく立案した各種の条件に無意味な無理難題を吹っかけてくるかもしれない、というおそれがあるのだそうです。社長印を借りて押すだけならこういう問題はないとのことです。

このことから「ハンコ社会」の心理を読み取ってみると、サインの場合、署名有資格者の個人的判断、責任が明確になるために慎重な判断が要求されるが、印鑑の場合責任の所在が(少なくとも心理的には)あいまいにできる、ということのようです。役職者の本来の個人的経営能力の高度化、市場参加者の自己責任という考え方が重要になってきている今日、日本国内でサインを通用させていこうという試みに賛成です。

商法をどう読んでみても、捺印はあくまでも署名の代用なのですね。これは日本の民法典がほぼドイツの民法典の移入から出来しているという事実からして、当然のことと思います。ただし欧州にも古くから印章の伝統がありますので、ロンドンなどでは日本企業の社長印が特例として通用しているようです。【チューリヒ在住】

●サインで買い物するクレジットカードの申し込みにも印鑑
私はクレジットカード会社で仕事をしています。クレジットの申込も捺印が要るのはご存知だと思いますが、「サイン」「サイン」という業界が変な話だと思います。銀行預金は曲がりなりにもサイン預金がありますが、クレジットの申込みはサインではできません。銀行系のクレジットカード会社は概ねそうです。

記名捺印の議員立法に明治政府が反対したとは驚き。時の政府より当時の議員が印鑑を選び、そしてそれが今も永久的万古普遍の制度のようになっている。明治の人は議員にしても政府にしてもみずからの考えで行動したかのように見える。

(本当はどうか分かりませんが)現在もみずから考えているのでしょうが、今ある制度を無条件にあるいは嫌々ながら肯定することばかりと思います。不便なものは変えていいんじゃないでしょうかね。もっとも今の制度で利益を得ている人の巧みなすり替えと制度を利用する側の奴隷根性(言い過ぎですかね)の両方が支えているのでしょうか。

民法では口頭、署名のみでも契約は成立。といっても後々の争いを考えれば署名捺印、記名捺印が無難ですね。ただ印鑑証明という制度は戸籍と同様に人間を縛る制度と思います。いわゆる日本的ですね。【あずいち】

●電子印鑑システムなんて日本だけ?
「さて日本ははんこ社会をどう変えようとしているのだろうか。法務省とかどこかで考えている人がいれば日本は救われる」とありました。

いえいえ,こんな障害くらいでは旧来の慣行は簡単には変わらないんですよ。おそらく日本だけだと思いますが,電子印鑑システムというのも開発されています。(^_^) グループウェア上で稟議制をシミュレートしてしまうものもあるようです。こんなソフトを開発されられる技術者が気の毒ですが,それだけ顧客からの強い要望があるんでしょう。

残念なことに,多くの日本企業では既存の組織や業務慣行を改革するのには消極的なようです。グループウェア導入によって業務のやり方を革新するのではなく,いつの間にか導入自体が目的となっています。他社がやるからうちもやる,というのもあるかもしれません。グループウェア自体はせいぜい電子社内便としてワープロ文書を添付ファイルとして運んでいるだけという事例も少なくないでしょう。

なぜかと言えば,グループウェアの本格活用で業務の革新を行うということは,間接業務部門や中間管理職の存在意義そのものを脅かすことになるからです。そして,現在の彼らはグループウェアを社内でどう活用するかという方針へ強い影響力を持っています。当然ながら,彼らの防衛本能がグループウェアを骨抜きにしてしまうというわけです。

もっとも,さすがに昨今の厳しい情勢ではこんないい加減なことをしているようではグローバルな市場での競争力を維持することすら難しく,企業自体の存続が脅かされてしまうでしょう。早く目が覚めて生き残るか,そのまま沈没するかの分水嶺にいるのかもしれません。このテーマは,ほとんどそのまま国の行政改革・政治改革にも当てはまりそうですね。日本社会のあらゆるシステムが同様の問題を抱えているような気もします。【大阪市在住】

●最終判断をするのは、主権者である国民だ
「法務省とかどこかで考えている人がいれば日本は救われる」。法務省の方は、何に基づいて行動するのでしょうか?日本は法治国家であり、法務省の役人がいかなる政策を考えようと、最終判断をするのは、主権者である国民ではないでしょうか。さらに申し上げれば、法務省の役人にどのような政策を考えさせるか、それは主権者である、国民ではないのでしょうか。【無名】