執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】

●独禁法導入でできなくなった金利の談合

日本が「臨時・暫定・特定国家」であることは02月11日付萬晩報「租税特別措置法で2倍払わされているガソリン税」で述べた。「臨時」という呼称をつけた法律も多く存在する。国家経営に「臨時的措置」は不可欠だが、何十年も臨時のままでは法律体系として美しくない。

国際的な紛争や大規模災害時などに直面した場合、一時的に市民権の抑制があっても仕方ないが、臨時措置が恒常的に続くことなど本来考えられない。にも関わらず、日本では長期間の”臨時”が多く続いている。

「君は日本で一番長く続いている臨時法ってなんだか知っているかね」

「知りません。なんですか、教えて下さい」

「臨時金利調整法なんだよ。終戦後まもなく昭和22年に制定された法律だから、もう50年以上を経ている」

「規制金利時代の根拠法って臨時的措置だったんですか」

「1990年代に入って銀行金利が段階的に自由化されただろ。それまでは日銀の政策委員会が公定歩合の上げ下げの度に市中金利の最高限度を決めていたんだ」

なぜ「臨時」的措置となったか知らない人も多いだろう。臨時金利調整法は「独占禁止法」の成立と密接に関係がある。日本が戦争に負けて、米国が占領政策で一番最初に打ち出したのが独占禁止法の導入だった。独禁法と財閥解体は対の占領政策であった。

実は戦前の預金金利は金融機関が“談合”して決めていた。独禁法がなかったから民間で談合があっても別に問題にならなかったが、1947年、独禁法が成立したことによって金利の談合はできなくなるという不都合が生じた。かといって敗戦の混乱のなかで自由金利を導入すれば経済がめちゃくちゃにある恐れがあった。

そこで政府が決めれば、独禁法と関わりなく市中金利を統制できることを思いつき、くだんの臨時金利調整法が導入された。「当分の間は公定歩合の変動に基づいて日銀が決める」ことになった。あくまでも「当分の間」の措置だったはずだ。当時、焼け跡の日本経済そのものが統制下にあったからやむを得ない措置だった。

●自由化のいまも廃止されない臨時金利調整法

まさに緊急的措置として「臨時」的法律が作られた。臨時的措置が認められたのはまさに戦争終了後も経済的には国民はまだ統制下、つまり戦時下と同じ状態に置かれていたからである。ところがその臨時措置が50年間も続いてきた。その後、1960年代に銀行金利を自由化しようとする動きがあったが、実現しなかった。

護送船団方式と日本の銀行が揶揄されるようになったのはそのころからだが、それでも1985年の円ドル委員会でアメリカから指摘されるまで日本政府は臨時的措置を続けた。金利の自由化は米国の圧力がなければ実現できなかった。いや実態をみるかぎり、まだ実現できていないとみる方が正しい。

倒産した木津信用金庫など危ない金融機関が高い預金金利で資金を集めたことは話題になったが、どこの金融機関へいっても金利は横並びである。不思議なことに、臨時金利調整法は金利が自由化されたはずのいまも現存している。

日本の法律が難解なのは、臨時、暫定、特定など国民にとって馴染みがなく意味不明の表現が多いからだ。官僚の世界では一般の国民の理解を超えた多くの法解釈があるようだ。

臨時法の概念について有斐閣の「新法律用語辞典」を引いた。

「特定の事態に応ずるため制定され、その存続が恒久的でない法令」とあり、その期限について「法令自体に存続期限を明示してあるものを臨時法と呼ぶ説もあるが、臨時金利調整法のように有効期限を定めていないものを臨時法というのが普通である」とわざわざ説明がついている。なんたることか。大学の法律専門家に聞くと「臨時といっても最大で10年でしょう」といっていた。法曹界もまた普通人の理解を超えた判断を示してるのだろうか。

半世紀を迎えてもまだ臨時という解釈が成り立つ日本語ってなんなんだろう。まさか英語の「provisional」という概念まで半永久ではないだろう。