下半身不随でも夢を変える必要はない(HABReserch&BrothersReport)
執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】
萬晩報は独自の素材と独自の視点をモットーにしてきた。だから既存のマスコミの記事とは一線を画してきた。しかし今日は違う。日経新聞夕刊5面で月曜日から続いている「人間発見」『車椅子で起こす改革の風』はどうしても紹介せずに入られない。
●リハビリ病院で提供される様々な情報と選択肢
1979年、アメリカでの高校留学時代に寮の窓から階下に転落し、下半身不随になった山崎泰広氏が、ベンチャー企業を興して成功した話だ。アメリカの車椅子の輸入販売から手掛けて、いま障害者向けコンピューターの開発に力を入れている。
2月27日付萬晩報に「職務に忠実なアメリカの高校カウンセラー」を報告した。『車椅子で起こす改革の風』はその障害者版ともいえるもので、支援システムやカウンセリングの在り方など様々な日本とアメリカの違いを浮き彫りにしている。
「下半身不随を告知されてもまったく落ち込みませんでした。リハビリ病院では様々な情報をきちんと提供してくれたからです。渡された雑誌には障害を持ちながら水泳や、テニスなどの競技選手として活躍している人や、政治やビジネス、学問などの分野で実績を上げている人たちの生き方が克明に紹介されていた。スタッフは現在、こんな道具やテクノロジーがあり、それを利用すれば目的も夢も変える必要はないとアドバイスしてくれた」
帰国後、入院したときに知った医療加護の彼我の違いを思い知らされる。日本では「できないことばかりをあげつらう。何ができるかは伝えない」「身障者に対して日本の病院は、限界の網だけをかぶせ目標を持たせるための情報や生活への選択肢を与えない」。筆者は病院とは無縁の生活を40年以上続けてきたが山崎氏が語る彼我の違いは容易に想像できる。
●窮屈な日本に風穴を開けたかった
その彼我の違いから山崎氏は1990年、車椅子の輸入会社の設立を決意する。アメリカでは車椅子でもさまざまなカタログや雑誌があって気に入ったものが選べるのに、日本の病院には指定業者制度があって特定の企業のものしか買えない。しかも欲しい機能は少ないのに価格は法外だ。そんな窮屈な日本の車椅子の世界に風穴を開けたかったのだ。
記事を読んでいて、1990年にサンフランシスコで知り合った日系人の障害者であるカツヒコ・オカ氏の通勤風景を思い出した。オカ氏の職場は市役所だが、車中心社会のカリフォルニアのなかを車椅子で自由自在に歩き回るのだ。朝、着替えと洗面を済ませ、コーヒーを沸かしトーストを食べると出勤だ。電動のガレージの扉を開けて車椅子でそのまま歩道に出る。大道路まで出て手を上げるとバスが止まり後部に設けられたリフトが下がる。
自分で「上昇ボタンを」押すとリフトが上がりオカ氏はもはやバスの乗客だ。家の中だけでなく、街のインフラまで障害者対応になっているのには驚いた。歩道の段差をなくして障害者にやさしいなんていっているどこかの自治体とは次元が違う。市役所やもちろん飛行場でもどこでも人の手助けをほとんど必要としないという。
母親は「小児まひの後遺症で子どものころから歩けません。でも成人してからの彼はすべてを一人でやっている。親が助けたのは、家への出入りがしやすいようにガレージの西側に部屋をつくってやったぐらいですか」と事もなげにいう。自立しなければ社会人としてやっていけない。アメリカには努力する人々に報いる社会的インフラが確かにあった。
●テクノロジーの革命を日本でも
山崎氏の目指すものは、あのホーキング博士がコンピューターを使って話したりするようなテクノロジーの革命を日本でも起こすことだ。テクノロジーを駆使すれば重度の障害者も障害に関係なく社会で活躍できることをアメリカで学んだからだ。
長野オリンピックに引き続いて開かれたパラリンピックで日本選手勢は多くのメダルを獲得し、日本中に感動を巻き起こした。並大抵の努力でないと思う。だが身障者を特別視してはいけない。日常生活に”異なるもの”を受け入れる度量さえあればいい。外国人がじょうずに日本語をしゃべると「おじょうずですね」の褒め言葉を連発するようではいけない。