執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】

03月24日付 「5月から耳の不自由な人も漫才が楽しめる!」には実にいいコメントをいただきました。台湾や香港では同じ中国語でも台湾語、広東語といった言語がいろいろあるため映画だけでなくテレビでも必ず字幕が入るんですよ。多くの国に映画やテレビ番組を輸出するアメリカでも基本的に字幕が入っているのだということを知らされました。日本語だけでやってきた日本だけが特殊だったわけです。

●台湾では身体障害者に対する差別がほとんどない

わたしは台湾に留学していますが、こちらには「五燈奨」という勝ち抜き歌番組がありますが、この中で普通の歌、外国人による中国語の歌とともに手話ダンス+歌も正式な種目となっています。その表現力は見事というほかありません。

こちらの人は日本の人と違って、身体障害者に対する差別がほとんどないといってもいいくらいです。私自身は障害者ではないのですが、生活していてとても気持ちのいい場所です。【台湾への留学生】

●アメリカではキャプションは当たり前

1.日本でなぜCC(クローズドキャプション)が普及しないのか

字幕入りビデオが珍しいこととしてニュースになっているわけですが、アメリカではビデオやLDなどのソフトにCC信号を入れること、そして映像を再生する機器にはそれらをデコードして表示する機能を内蔵することが法律で義務づけられていたと思います。同じようなシステムが日本ではなぜ導入されないのでしょうか。機会がありましたら,今後取り上げていただけるとありがたいです。

2.障害者団体の日頃の活動の取材と紹介を

「日本の障害者問題は、ひょっとしたら障害者団体の人たちに内在しているのではないかとも考えた。」との表現がありました。確かに、ある種の団体は、立の本当の趣旨を忘れていることもあるかもしれません。しかしながら、日頃の地味な活動には見向きもしないで、時々話題性のあることだけを断片的に取り上げるマスコミの姿勢にも多いに問題があるはずです。先のような批判をするのでしたら、そういう団体の日常活動もきちっと取材・紹介した上で批判をするのがフェアだと思います。【大阪市在住】

●祖父の世代以降は「古典落語」で落語や漫才を楽しんでいた

小5で突然聞えなくなり、以来20年以上、音とは無縁の世界で過ごしています。記事のスタンスには、全面的に賛成です。ただ、いくつか誤解を招きそうな所もあるので、ちょっとだけ嘴を突っ込ませて下さい。

「耳の不自由な人たちは寄席とか漫才とは無縁と考えていたんですよ。われわれは。目からうろこというんでっしゃろか。これ」とありましたが、無縁どころか、少なくとも私の祖父の世代以降は、落語や漫才を楽しんでいる聴覚障害者がたくさん居ます。「古典落語」をはじめとした、本の形になったものがありましたから。

こういう本を読む理由の1つは、もちろん、純粋に「読んで楽しい」からですが、もう一点、「口語をできるだけ厳密に文字に起こした本」というと、このようなものしかなかった、ということも挙げられます。聞こえないと、おしゃべりの微妙な言葉づかいや「間」というものは、意識的に学ばないと身に付きません。聾学校などでも、嫌というほと教えられるのですが、それでも足らない部分を、こういった本からも吸収しようとしたのです。このような「本」しかなかったものが、VTR になるというのは、たいへん楽しみなことです。聾協がどう言おうと、私なら即、買います。

「ところが地元の聾唖協会が文句をいった。『あんなものは聾唖者を愚弄している』と言ったらしい。どうも、一生懸命やっている>

協会が注目を浴びないのに、市役所の若者のパートタイムボランティアが脚光を浴びたことが気に食わなかったらしかった」。これは、もう少し複雑な背景があります。手話には「日本語を手指で表現する」ものと「日本語とは異なる、手指での表現に適した言語」との2種類があるとされていて、聾唖協会は(地域や協会の成り立ち方などによって千差万別ですが、基本的に)後者を「聾唖者の文化的な背景」として強力に支持している、ことになっています。

市役所の若者が、もし前者を大々的にアピールしたとしたら、聾唖協会は立場上、反発しない訳には行かないのです。しかし、若い聾者の間では、「とにかく通じれば良い」というラジカルな考えを持つ者が多いので、「楽しければ楽しむ」のでしょう。ちなみに、聾唖協会とは別に「中途失聴者・難聴者協会」というところもあって、こちらの方がこと字幕に関しては、積極的です。

結局のところ、吉本の「目からウロコ」な考え方が一般的になると、私たち聴覚障害者のためにも良いこと、と思っています。 吉本取材の続編を含め、今後の記事を楽しみにしています。【補聴器メーカー勤務】