執筆者:伴 武澄【共同通信社経済部】

●日朝中英の4カ国語を駆使する趙利済氏の夢

1992年4月末から5月初旬にかけてピョンヤンで北東アジア開発会議(豆満江開発会議)が開催され、130人の参加者とともに列車で豆満江のロシア国境まで旅した。豆満江にかかる鉄橋の上立ち、感極まったハワイ大学東西センター副理事長の趙利済氏が演説した。

「いまわれわれの立っている豆満江は、数年前までここは軍事境界線だった。しかし今、東西冷戦の長いトンネルを抜け、この地で民族を超えた経済開発がはじまろうとしている。そんな歴史的地点にいまわれわれはいる。そしてわれわれは日本海を対立の海から開発の海にしなければならない」

忘れもしない。英語でしゃべり、一人で日本語、朝鮮語。中国語に翻訳した。4月とはいえまだ寒風吹きすさぶ川面にミスター趙の声が響き、終わると大きな歓声がわき起こった。その場にはロシア、アメリカ人、ドイツ人もいた。歓声は参加者それぞれの感慨を意味していた。筆者はどういうわけか「五族共和」という死語を思い出していた。趙氏は京都市生まれの元在日韓国人、アメリカ国籍を取った。中国での研究生活も長かった。まさに豆満江開発の申し子のような人だった。

1990年代に入って、豆満江開発が急浮上した時期があった。日本、韓国、北朝鮮、中国吉林省、極東ロシア。それにハワイ大学のシンクタンクが加わり、ロシアと中国、北朝鮮の三カ国の国境地帯に流れる豆満江流域に多国籍による経済開発区を創設しようとする構想だった。新潟の民間組織である日本海圏経済研究所の故藤間丈夫代表とハワイ大の趙利済氏が旗振り役となって各国に参加を呼びかけ、国連開発計画(UNDP)も強力な支援体制を組んだ。300億ドルの巨大プロジェクトがスタートしようとした

北朝鮮はその前年、先鋒と羅津を含む東北部を自由貿易経済特区に指定し、孤立主義から外資導入へと大きな政策転換を始めていた。豆満江会議で一番はしゃいでいたのは韓国からの民間人だった。豆満江への投資は単なるビジネスを超えて南北統一の悲願への大きな前進になるはずだった。しかし、まもなく北朝鮮による核兵器開発疑惑問題が持ち上がり、豆満江開発計画は急速にトーンダウンした。

●特定国の利権が存在しない「新五族共和構想」

筆者が興奮したのは、ひょっとしたら「五族共和」がこの地で実現するかもしれないという期待からだった。日本と韓国の技術と資金、北朝鮮と中国の労働力で北朝鮮、中国、ロシアにまたがるあらゆる資源を開発するという構想にはかつてないロマンがあった。もちろん日米韓の巨大資本の姿も見え隠れしていた。

この「新五族共和構想」にはかつての満州国のように特定国の利権は存在しない。それぞれに夢があった。北朝鮮と極東ロシアにとっては経済開発と外資導入が目的だった。中国吉林省は日本海へのアクセス確保が至上命題、韓国は南北統一、日本海岸の日本の自治体には新たなフロンティアに映った。この地に「新五族共和」による繁栄がうち立てられれば、歴史上稀に見る多民族互恵開発が進められる可能性があった。

興奮気味で帰国した筆者は上下2回の企画記事を書き「新五族共和構想」というタイトルをつけた。しかし豆満江開発同様、このタイトルはお蔵入りとなった。当時の経済部デスクは、満州国を連想させる「五族共和」の四文字は前向きの開発計画には似つかわしくないという判断をした。南北朝鮮、日本、中国、ロシアの5カ国でいいネーミングだったといまでも考えている。

実は筆者らによる北海道独立論の素地としてこの豆満江開発があり、「新五族共和」はこれからの極東アジアの在り方を考えるうえで欠かせない重要な理念のひとつだと考えている。独立北海道のフロンティアは環日本海とオホーツク海であることはまぎれもない。

豆満江開発は、「北東アジア開発会議」として趙利済氏を中心に地道な意見交換が続いている。独立北海道は外国人にも住みやすい国家を目指すことは以前レポートした。当然ながら南北朝鮮、中国、ロシアが優先される。地域国家として北海道はこの海域での交流がもっともっと必要で、理解をますます深めなければならない。

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