執筆者:伴 武澄【共同通信社経済部】

●レバノン人が次期社長の有力候補

人材の国際的な登用で一番進んでいるのがアメリカのフォードモーターズである。日本法人社長の鈴木弘然氏に聞いた話である。

「フォードのトロットマン会長兼社長は英国の現地法人からのし上がった人なのを知っていますか。英国といっても、子会社の人材がトップに上り詰めたんで話題になった。今度はレバノン人が社長になりそうなんだ。オーストラリアで学んで豪州フォードに就職した人なんだが、ジャック・ナッサーといって、デトロイト本社に抜擢されて今、副社長だ」

「技術系の人なんだが、コスト削減ですごい力量を発揮したことがトロットマンに高く評価されている。フォードでは年齢はもちろんだが、国籍すら問われない。どこの現地法人の採用でも力のある人がどんどん抜擢される会社になっている」

「日本人でもこの間、フォードの日本の販売会社であるオートラマの女性の経理部長が突然、新設したタイの工場への転勤を命じられた。本人もびっくりしたが、結局チャンスだと考えて転勤した。日本の会社で考えられますか。こんなこと」

「フォードのコンピューターには全世界のフォードの課長職以上の職歴と評価がすべてインプットされているんですよ。欲しい経歴や適性で検索すると国境を越えた人材リストが出てくる。そんな人材登用が大分前から始まっているんですよ」

●英語が日常語化した独ベンツ本社

欧米の大企業の経営の国際化はとんでもないスピードで進んでいる。ドイツのメルセデス・ベンツ社の本社では、一人でも外国人がいたら英語で会話をしなければならないことになっているそうだ。外国人社員が増え、意思疎通を図るための方便として始まった制度だ。いまではほとんどの場所に外国人がいるので社内の日常語はすべて英語になってしまった。

この二つの話は2年前に聞いた。さすがにびっくりした。日本が「日本独特の商慣行」などといっている間にグローバル企業は次々と旧来の殻を破って効率経営に進んでいる。もはやいい悪いの話ではない。企業経営の国際化が進むと共通の言語が必要になり、一番大きな市場の言語がその企業の”国語”になる時代に突入したといえる。

1960年代、アメリカで多国籍企業という言葉が生まれた。需要のある国や地域で次々と現地生産を始めた。日本の有力企業もまたアジアや欧米に生産拠点にを構築していった。貿易摩擦という負の要因もあったが、日本だけで生産して輸出でドルを稼ぐという企業経営は姿を潜め、我も我もと海外生産に傾斜していった。日本の国際企業は本社を頂点とした国境を越えた生産や営業のピラミッドを形成した。そこまでは欧米企業の跡を追った。

●海外での経験を捨て去ることが出世の早道

ただ多くの経営者は、1980年代後半から起きていたグローバル経営の”コペルニクス的転回”に気が付いていなかった。アメリカでは1990年前半には株主が経営トップをすげ替えるという異変が起きた。まったく違う業界の人材すらスカウトされた。子会社の経営者が本社のトップに代わることなどは日常的に起きた。トップが変わると社内文化は一変した。

繁栄にあぐらをかいた日本の経営者は、企業の「国際化」を「海外生産」と錯覚した。海外拠点は増えても、国内の国際化はほとんど進まなかった。海外で意識改革に目覚めた社員は「帰ったら本社を変えてやる」と意気込んだが、帰任して半年もすると挫折した。目ざといエリート社員は「上を目指すには海外での経験を捨て去ることが一番の早道である」ことをまもなく悟ることになる。

現在、約50万人の企業戦士が海外で働いている。そこそこのエリートである。培われた国際感覚は昇進の邪魔でしかない。日本企業の国際化はその程度でしかない。