「老台北」台湾に生き続ける50年前の日本人のDNA(HABReserch&Brothers Report)
執筆者:伴 武澄【共同通信社経済部】
台湾のベンチャーの旗手の一人である「老台北」(ラオタイペイ)が最近よく京都に来る。なにやら京都のハイテク企業との提携話に忙しいようだ。知り合って4年になる。「義」を重んじる人である。
その「老台北」の口癖は「最近の日本人はどうなっているんですか」
「われわれの知る日本には清貧というまれにみる資質がありました。貧しいということは恥ずかしくない。いさぎよさです。あなた若いから知っていますか。清貧な日本人はどこへいったんですか」。元日本人としてはずかしいとも言う。
●ベレー帽姿で現れた「老台北」
1994年11月末、台北にいた。
「伴さんはラッキーだ、明日、案内してくれるのは蔡さんですよ。司馬遼太郎の『台湾紀行』に出てくる『老台北』は知っているでしょう」。
新聞局の朱文清さんが言った。翌日、台湾のハイテクランドである新竹科学工業区を取材することになっていた。
日本の空港で『台湾紀行』買って読み始めたばかりだったから、「老台北」には親しみを感じていた。司馬遼太郎を通じて日本人に有名になった蔡さんは、半導体設計会社、Weltrendの会長だが、もともとは日本へウナギの稚魚を輸出する仕事で富を築いた。
翌日、ベレー帽姿の「老台北」が黒塗りのベンツでホテルに現れた。本名は蔡焜燦。蔡という姓は福建省や台湾に多い。失礼ながら日本の田舎にいけばどこにでもいそうな顔付きのおじさんだった。
「この車は伴さんのために借りてきました。会長車なんてめんどくさいから持たない主義なんですよ」
なにも聞かないうちからしゃべりはじめた。日本人に会うと話が止まらないとは聞いていた。新竹工業区までの1時間しゃべり続けた。
●国民党にも裏切られた台湾人
「わたしね。昔、日本人だったんですよ。戦争中、京都の山奥で炭を焼いていました。京都の学校に行っていたのですが、炭焼きに動員されていたのです。やがて終戦が告げられ、進駐軍から台湾人は佐世保に集結するよう命じられました。台湾が自分の国になると思って涙が出るほど嬉しかったです。佐世保には2ヶ月いましたが、米軍を相手に英語もうまくなしました」
「蒋介石政権が接収した駆逐艦『雪風』に乗って、忘れもしない1月2日に基隆に着岸しました。市民が爆竹を鳴らして歓迎してくれました。その時も涙が出ました。ただ軍楽隊が音楽を奏でましたが、国民党の軍人のみすぼらしさに少し落胆しました。陳義総督が歓迎会で演説して台湾人に三つの約束をしました」
「国民党はうそをつかない。国民党は賄賂を取らない。そんな内容でした。日本時代には台湾に賄賂など存在しなかったので、みんなでびっくりしました。現実の国民党や軍による支配は略奪やたかりの連続ばかりでした。国民党に対する期待が大きかっただけに、台湾人の落胆は大きかったのです」
「わたしは故郷の台中市で教職に就きました。体育の先生でした。卒業式に生徒が日本語で別れの言葉を書いて欲しいというものですから『心に太陽を持て』と書きました。しかし、この文言が後で騒動を起こしたのです。『心に太陽を持て』という意味が分かりますか。国民党は『太陽』を『日本』の意味に取ったのです。たちまち蔡はけしからんということになりました」
「こんなところで先生など続けられないと思って、すぐ教職を辞めました。当時は一事が万事そんなことでした。だから基隆に着いて日本人の復員船に乗ってそのまま日本に帰って行ってしまった仲間が3人もいました。その騒動がなかったら今頃は校長先生かなにかやって悠々自適ですよ」
台中市では食べていけなかったため、台北に出て三輪車を引いた。自転車にリヤカーが付いた車両である。以来、ビジネスで運をつかんだ。50年前まで台湾人は日本人だった。蔡さんももちろんそうだった。蔡さんがほかの台湾人と違うのは、50年前の”日本人”のDNAがそのまま心の中で生きる続けているところだ。日本人の心などと書くと仰々しいが、そばにいていつも「清貧」を感じさせる人だ。