執筆者:伴 武澄【共同通信社経済部】

英国人が偉いのは英語を国際語として残したことである。最大の植民地だったアメリカ合衆国が第一次大戦後、債務国から債権国になり、第二次大戦後は唯一、戦争被害を受けなかった国家として戦後世界経済のリード役となったことにも起因している。独立した合衆国が仏領ミシシッピーを併合、スペイン領のテキサス、カリフォルニアをも飲み込みそれぞれの文化に染まりながらも、英語という言語だけは残した。 数年前、アフリカの西端のギニアを訪れた時、フランス語を解しない筆者は本当に困った。アジアでは英語と中国語でなんとか用は済ませるが、西アフリカではフランス語圏が確固として存在していることにある種の感動を覚えた。コートジボアールやマリなど西アフリカは英語はまったく通じない。多くの部族が国家的、言語的統合を迎える前にフランス語が流通したから、彼らの共通語となり、いまでは国語になっている。そういう意味でフランスも偉いことになるが、フランスの場合は旧植民地がその後、国際的に政治的、経済的地位を高めることはなかった。●植民地を経済的に「開放」した英国●
英国植民地の場合は、領有というよりも通商拠点の確保が当初の目的だった。ジブラルタル、スエズ、ケープタウン、コロンボ、シンガポール、香港は今でも貿易・海運の拠点として栄えている。同じ植民地から収奪しても英国は町を作り、都市を多くの商人に開放した。スペイン人はカトリック教を押しつけ、フランス人はフランス文化を植え付けようとした。植民地の人々にフランス語を強要できても、周辺国の人々には使ってもらえなかった。その点、英国は植民地を列強に「開放」した。植民都市での共通語としての英語はこうして外国人にも親しまれた。 香港の繁栄は「レッセ・フェール」にあった。場を提供し、外国人にもビジネスの機会を与えた。シンガポールも同様である。だから戦前から日本人もアメリカ人もやってきた。それぞれの商人たちは自国同士で集まって住んだが、お互いには「英語」を使った。英国は”後発”の植民地国だったため、自らが確保した通商拠点を「開放する見返り」として、先進植民地国に対しても通商拠点の開放を求めた。半ば余儀なくされた政策が、結果的に閉鎖的な支配を退けたのではないどろうかと思う。●第1次大戦前の世界地図●
インド、マレー半島のアジア植民地はもとより、ケニヤやタンザニアなど東アフリカ諸国、南アフリカ共和国も英語圏である。インドは、まずポルトガルがゴアに拠点を築き、フランスも中部インド領有を目指したが、ポンディチェリの戦いで英国に敗れた。マレー半島の貿易の拠点だったマラッカはもともマレー人のムルッカ王国の首都。ポルトガルが陥落し、その後オランダの手に渡り、1825年の英蘭協定で英国のものになった。 インド進出は、東南アジアの香料諸島がオランダの支配下にあったためやむなく出たものだが、「綿」と「茶」を得た。19世紀に東南アジアのペナン、マラッカ、シンガポール、香港という点を確保、「ゴム」「パーム油」「ボーキサイト」を獲得、最後に「アヘン」を見いだした。 インド全体を版図に納めたのは19世紀後半のエリザベス朝の絶頂期である。インドで得たのは「シーク兵」と「グルカ兵」である。傭兵である。近代的徴兵制度はナポレオンが導入した制度だが、英国は無尽蔵の人材の宝庫だったインドに傭兵の供給源を見いだした点で「天才」である。19世紀後半のセポイの乱以降、英国に絶対服従したインド人は英印軍兵士として、多くの戦場で英国のために戦った。傭兵だから、狩り出されたのではない。 英国は20世紀に入ってアフリカに地歩を固めた。南アフリカでは、ケープ植民地を奪取した勢いを駆ってオランダ系ボーア人と戦い(ボーア戦争)、オレンジ自由国とトランスバール共和国を手にし、英連邦に組み込んだ。ここでは「金」と「ダイアモンド」が戦利品だった。そこには世界最大の鉱脈があった。いまでもオッペンハイマー一族が率いるデビアス社が世界のダイアモンドの流通の9割を握る王国の地歩が形成された。英国は南アからさらに北上し、ローデシア(現ジンバブエ)、ザンビアにたどり着いた。ここは「銅」の宝庫だった。 東アフリカのタンザニアはもともとはドイツ領だったが、第一次大戦で英国の委任統治領となった。ここは何もなかったが、保護領化したケニヤ、ウガンダと併せて南アから東アフリカにかけての英国の覇権は確立した。●太平洋諸島で共通語になりかけた日本語●
話題が英国の世界制覇にずれすぎた。言語に戻す。では明治維新以降の日本は何をしていたのだろうか。いまでも台湾のお年寄りの共通言語は日本語である。韓国でも年輩者は日本語を解する。善悪をいっているのではない。事実を語っているのである。そして、忘れられているがマーシャル諸島など太平洋のことである。 第一次大戦の戦勝国となった日本は、ドイツが太平洋に領有していた島々を国際連盟の委託統治として実質的に支配下に置くことになった。現在の西からパラオ共和国、北マリアナ諸島連邦、ミクロネシア連邦(旧南洋諸島)、ナウル共和国、核実験場となったビキニを含むマーシャル諸島共和国。東西5000キロ、南北4000キロはゆうに及ぶ広大な空間は1920年から1945年の敗戦まで25年間にわたり日本領だった。早くから学校制度が敷かれて日本語が教えられた(ここらの詳細や今後の課題)。 共同通信社が発行する「世界年鑑」によると、住民に「カナカ族、カナカ族と米国人、ドイツ人、日本人との混血」と書かれている。これらの委任統治領は戦後、国連の信託統治領と名を変え、米国の配下に入った。ミクロネシアの初代大統領は、日系のトシオ・ナカヤマ氏(1979-87年)だった。最後の信託統治領となったパラオでは1992年、大統領選挙で日系人のクニオ・ナカムラ氏が当選した。現在2期目である。すべての人口を加えても数十万人でしかないが、日本人と日本企業はこうした太平洋諸島に夢を馳せ、進出した。 日本人の海外観光ツアーのメッカ、グアム島は北マリアナ諸島の南にあるが、米国が1898年の米西戦争でスペインから割譲を受けたもので、「日本領太平洋諸島」のど真ん中に確保した米国の橋頭堡だった。第二次大戦中に一時的に日本が占領したものの、一貫してアジアと西太平洋をにらんだ米軍基地として維持され、今も独立を許されていない。

植民地フィリピンと委任統治下のあった北太平洋諸島もまた英語圏に入った。(続)