ミニュチュアベアリングのメーカーであるミネベアが所有するボーイング707はシンガボール、バンコック、成田の間を1週間に3柱復している。座席は34席。貨物は最大30トンまで積める。この会社は、日本での開発、生産とタイ、シンガポールでの生産が一つのオペレーションとして行われている。そのヒトとモノの動きの大動脈の役を果たしているのがこの『ボーイング707』だ。
 たとえば、タイで生産するベアリングや電子部品の大半はこの飛行機で日本に運ばれ、アジア地域から日本に研修に来る現地法人の社員のほとんどがこの飛行機の乗客となる。
 通産省が導入した研修生制度を最大限活用している企業の代表だ。70年代には「研修に名を借りた低賃金労働」とも批判された。
 ミネベアがシンガポール進出を図ったのは1972年。日本への研修生の導入は1年前の71年からだった。250人にものぼる人数だったためマスコミでも大きな話題になった。同社によると「シンガポール工場の立ち上がりに合わせたもので、スタートからフル生産に入るため大人数になった」という。
 当時、アジアへの日本企業の進出は労働集約型の産業が多く、言葉は悪いが『ヒトさえ いれば作れる』製品の製造が次々と東南アジアに移転した。そうしたなかでミネベアのようにベアリングのプレス、研磨から始まる製造工程を移したケースは珍しかったともいえる。
 その意味で技能者レベルからの研修を日本で行うことはあながち「安い労働力の輸入」とだけ批判もできない。
 一方、72年といえばオイルショックの前の年だった。ミネベアは当時軽井沢の本社工場を中心に月産100万個のベアリングを生産していた。工場敷地に寮を立て、九州、沖縄まで工員を探した。大卒は、戦後のベビーブームが大量に卒業する時代を迎えていた。高卒の数は減少、工員のなり手は激減していた。
 『工場を増設しても働き手がいなければ、日本で生産しても仕方がない。それならばまだ良質な労働力が豊富なアジアに進出しよう』というのが当時の高橋高見社長の判断だったようだ。シンガポールの賃金は当然日本より安かったが、ミネベアの場合、人手不足という要素も強く働いた。
 当時のミネベアの研修制度は多岐にわたる。まず、将来の管理職候補を育てるスカラシップ。慶応大学などに留学させて、日本の経営管理の基礎からきっちり学ばせた。
 次に工場のメンテナンス要員は技術者として3、4年かけて生産整備関連のノウハウを指導した。さらに職長クラス、いわぱライン管理者として1、2年程度、国内の工場で生産に従事しながら研修した。
 そのほかラインの作業員も多く日本の生産ラインで研修、品質管理の重要性を習得させた。
 研修期間も一般の企業の研修が2週間から長くても3ヵ月なのに対して、最低半年から2二年間にもおよぶ。この結果、工員から職長クラス、技術者までもが長期間日本の工場での生産に“従事”することになる。人数も工場の新設、増設、設備の更新時に急増する。機械の操作を教えるのだけなら2週間で十分だが、帰国したその日から設備をフル稼働させようとすると研修も長期化する。
 ミネベアの戦略は徹底した現地主義で、部品の内製化はもちろん、工場管理からファイナンスまで現地調達し、日本側は生産のサポート役に徹した。250人でスタートしたシンガポール工場は最盛期には従業員4500人に達する同国最大の外資系企業にまで発展した。榊原取締役によれば、『その成功を導いたのが研修制度だった』という。
 しかし、そのシンガポールも同国の高賃金政策や人手不足のあおりで限界がきた。ミネベアは80年には今度はバンコクに「NMBタイ」を設立、ベアリングのほか電子部品などの分野にも生産を拡大している。タイの3工場の従業員数は1万5000人を超える。タイでも外資系企業の最大手の一角だ。
 ミネベアにとってタイは、いまや世界最新鋭の製造装置で一番品質のよいベアリングを作る生産基地。月産3000万個以上を生産している。一方、軽井沢の本社工場は19年前の100万個体制のまま。生産のためにあるというよりも、開発や研修のためにあるといったほうが正しいのかもしれない。その開発についてもタイでの技術者のレベルが向上しているため5、6年後にはタイに移す考えで、「開発センター」構想も着々と進んでいる。
 ミネベアが研修生を受け入れた71年から88年までの18年間にシンガポールから787人、タイから1771人の研修生を受け入れている。合計2651人で年平均にすると約150人にもなる。