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イラク問題を人類社会のターニングポイントに

2003年02月26日(水)
埼玉女子短期大学兼任講師  大塚寿昭


 イラク問題に関する国連安全保障理事会の公開討論では、大半の国が独仏の査察継続を支持し、米国の武力行使に反対する意向を表明した。米国としてもこれらの国々の意向を無視して、今すぐ武力行使は断行できないだろう。

 今日2月26日時点での各報道でも、少なくとも3月7日までは武力行使はないと見ている。幸いにして時間が延びるに従って、米国内や英国内でも武力行使に対する疑問の声が大きくなってきている。 この間隙は幸運にも神が与えてくれた時間のようにも思える今、世界各国はこの時間を活かして、さらに平和的な解決を目指して最大限の努力をすべきと思う。

 私はこのイラク問題の初期から何か感覚的に違和感を抱いていた。その違和感は具体的には何だろうと考えている過程で答はすぐに得られなかったが、気がついたのは「安寧と安定は違う」ということだった。

 第2次大戦後、世界は米ソ2大軍事国家の「恐怖」のバランスによる「冷戦」という状態のもとに、ある種の安定した状態が続いてきた。その安定した状態のお陰で、日本は米国の軍事力の傘の下で経済の発展に力を注ぐことが出来た。日本の国民はその状態を「安寧」と思いこみ、自国の安全保障に思いを致すことを忘れてしまっていた。

 しかし冷戦が終結し、それまでの「安定」状態が崩壊して様々な紛争が世界各地で勃発した。日本の安全保障に直接に問題を投げかけた湾岸戦争と、911からイラクへと続く一連の対テロ(戦争)対策に、直面した日本政府はうろたえるばかりの醜態を晒してしまっている。「安寧と安定」の思い違いが、ここにきて日本人に大きな問題を投げかけてきている。

 人類社会全体にとって、「恐怖」のバランスによる安定状態というのは、本来あるべき姿ではないということを改めて考えてみるべきではないだろうか。この「恐怖」を取り除く方向へ向かって努力を傾注することが、本来の人間らしい世界を築くことだと思う。イラクに対し米国が武力行使をするということは、その本来あるべき姿に向かうのとは逆コースへ向かう、つまり、さらなる混沌と迷走の世界を招来するのではないか・・・そういう一種の直感が働いていて、多くの国々は米国の行動に異議を唱えているのではないだろうか。私の感覚的な違和感も、恐らくそういうことではなかったかと思えるようになった。

 この感覚をある外国人(イスラム教徒が人口の80%を占めるアジアの1国)ジャーナリストに尋ねてみた。「もし米国が武力行使したらどうなる?」と問うてみたら、「今、現時点でテロリストでもなければ、テロの準備すら考えたこともない人たちが、反米的活動(テロを含む)を始めるようになる可能性がある。」「テロが止むどころか、潜在的テロリストを大量に生む可能性もある」という答が返ってきた。

 パワーバランスを前提とした「安定」、あるいは力によって押さえ込んだ「安定」は、押さえ込まれている側にとっては常に「恐怖」がつきまとう。そしていつかパワーバランスが崩れる時を迎えたら、そこには大きな混乱が起きるであろうことは容易に想像がつく。国対国の戦争は、どちらかが降伏すれば終わる。しかしこれからの新しい戦争はテロリスト対国家という図式であり、何をもって終わりとするか誰も規定できないし、もしかしたら終わりはないのであろう。

 911以来確かに戦争の形態は変わった。そして、その新しい戦争形態をなくすには圧倒的な武力行使では解決しない。世界の多くがこう考え始めたのではないか。そうであればこそ、武力以外の解決方法を見いださないと、人類社会は常に「恐怖」を内在させながらの日常になってしまうのである。

 米国の一般市民はテロ対策でナーバスになっているようだ。生物兵器によるテロがあるかも知れないという警報に怯えた2月13日前後には、自宅のドアや窓に目張りするダクテープ(ガムテープの一種)がアメリカのスーパーマーケットの店頭から消えてしまったそうだ。さらにナイトクラブの火災で犠牲者が大量になったのも、観客がパニック状態になって出口に殺到したからではないかとも言われている。

 米国市民にとっては現在の異常な状態は受け入れがたいものだろう。早く元の安寧な日常生活に戻りたいと米国民の誰しもが願っているはずである。そうした日常への苛立ちが、武力行使による早期解決を望むという決して少なくない世論を構成しているのかも知れない。しかしこの新しい戦争の形態は、押さえつける側の国民の「安寧」をも奪ってしまい、「恐怖」の日常をもたらしているのである。

 報道などによる米国政府高官の発言を見ていると、ラムズフェルド国防長官はことあるごとに「米国の国益が優先する」と発言し、ライス補佐官も同じく「国益」を多用する。歴史的に国家という仕組みが人類社会に登場したときから、国家が国益を追求するのは当たり前のこととして認められてきた。

 また自由社会における自由競争も、それを至上のものとして、妨げるものは排除すべきだという考えが認められてきた。国と国との利益(国益)追求競争も原則自由であるとすると、国家間の利益(国益)追求はどこかで互いに衝突することは避けられなくなる。国益の衝突は最後には武力による「戦争」に至ることは、人類史が例外なく教えてくれているものだ。

 米国のような唯一のスーパーパワーを持った国が武力を前提に「国益」を追求すれば、武力を実際に行使するか否かを問わず、当然ながら他の全ての国は押し切られてしまう。イラクではそのスーパーパワーが先制攻撃をすると宣言して武装解除を迫っているのである。今後米国が暴走したら誰も止められない、そうなってしまうことを国際世論は強く危惧しているのである。米国の国益追求が人類社会全体にとっては不利益を招く、世界の多くの人々はそういう意識に変わりつつあるのだと思う。

「安心して暮らせる社会」が、実は「恐怖」のバランスによる「安定」でしかなかったことに世界の人々は気づき始めている。その意味で、このイラク問題は人類社会に大きなターニングポイントを迫っているものではないだろうか?

 国益追求、自由競争を至上のものとする価値観から、人類社会は本来の「安寧」を求める世界へと舵を切らねばならない。脅威の存在に怖れることなく、現実解を短絡的に求めるのではなく、長い時間がかかっても人間本来のありかたを求める、その方向に転換するべき時が来たと強く思っている。

 大塚さんにメール mailto:otsuka@giganet.net

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