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地域にもDNAがある―水沢市で考えたこと(1)

2002年11月13日(水)
メディアケーション 平岩 優


 最近、企業のDNAといった言い方を聞くことがある。企業固有の風土・文化や技術の蓄積などをさすのだろうか。それなら、それぞれに異なった地勢、気候条件に置かれ、人々が暮らしを育んできた地域社会にも当然、そこに固有のDNAがあるだろう。

 西洋史の阿部謹也氏がどこかで、ドイツの各地域の学校では学校の歴史がよく蓄積・整理されていて、日本から問い合わせても、1週間ぐらいでマイクロフイルムが送られてくると話しておられた。ヨーロッパでは地域史が大事にされているのであろう。

 水沢・一関に育った人材

 昨年の初夏、友人と岩手県の焼石岳に高山植物を見に行った時に、はじめて水沢駅に下車した。水沢市は北上川が中央を流れる人口6万の商業都市で、維新前は留守氏2万石(水沢伊達氏)の城下町であり、この界隈の農産物の集積地であったと思われる。町中を歩いても、どこといって変わったところにない中規模の町である。

 駅前で、当地の観光案内図を見ていて、ここが高野長英の出身地であることを知った。そればかりでなく、満鉄総裁や東京市長を勤めた後藤新平や、31代の内閣総理大臣斎藤実も水沢から出ている。後藤と斎藤は竹馬の友であり、これに新島襄に師事した山崎為徳を加えて地元では水沢の3秀才と呼ぶらしい。3人とも藩校立生館で学んでいる。山崎は同志社において新島の後継者と目されていたが、惜しくも25歳で亡くなっている。

 高野長英がこの辺の出であることは知っていたが、不勉強のため、なぜこの水沢からかくも優れた人材が輩出したのか、不思議な気がした。

 その後、たまたま我々書籍編集に携わるものの大先輩である高田宏氏の『言葉の海へ』を遅ればせながら読む機会があった。この著作は、日本で初めての近代国語辞書『言海』を独力で編纂した大槻文彦の伝記である(大佛次郎賞受賞)。この本を読むと、近代国家が成立するには経済力、法制度、教育、軍の整備などのほかに、国語が統一され、その国語の辞書が必要であることがわかる。そして大槻文彦が辞書づくりに全生涯を傾けた原動力は、不平等条約の是正をはじめてとした、日本という近代国家の建設に発していたことが理解できる。そのため、この本では祖父大槻玄沢から父磐渓を経て、文彦に継がれた洋学を、この国に活かそうという大槻一家の志がどのようなものであったが語られている。

 さて、この大槻氏の出身地がというと、これがなんと水沢の隣の一関であった。文彦の祖父・玄沢(1757〜1827)は一関の藩医から医学を学び、22歳にときに杉田玄白のもとに送られ、玄白からオランダ医学、前野良沢からオランダ語を学んだ。そして、後に京橋に蘭学の塾を開き、この家塾が日本の洋学のメッカとなる。大槻家では子供たちに種痘が接種され、毎年、太陽暦による「オランダ正月」の宴が開かれたという。

 父・磐渓は翻訳には詩文の才のあるものがいるという玄沢の考えから、湯島の昌平黌(しょうへいこう)に入学。漢学者として一家をなすが、西洋事情にくわしく、西洋砲術を学び、伊達藩の江戸藩兵に軍事訓練を施す。ペリー来航(1853)のおりは、浦賀に往来して開国論を主張し、後に渡米した木村摂津守が持ち帰った『ペリー日本紀行』を受け取り、伊達候に翻訳を進言して、校閲にあたっている。そして、文彦(1847〜1928)は16歳で幕府の洋書調所(開成所)で英語と数学を学びはじめるが、すぐに藩令で一家をあげて仙台に帰省することになる。

 このころ、攘夷論が席巻し、磐渓と行き来があった佐久間象山が尊攘派によって暗殺。磐渓、仙台藩は尊攘派の薩長が権力を握れば、日本が西洋列強によって分割されると、内乱を防ぐための公武合体の立場をとった。後は歴史の知るところである。仙台藩は会津藩追討の勅令を受けるが、会津藩の降伏工作をすすめ、折衝に成功する。しかし、奥羽鎮撫総督本部は受諾せずに、結局「北日本政府」である奥羽越列藩軍事同盟が成立するのである。

 「ターヘルアナトミア」の衝撃

 ところで、高野長英は1804年、留守家中の中級の武士の三男として生まれる。が、父親が死んだ8歳のときに母方の伯父・高野玄斎の養子となる。玄斎は武士であったが、江戸で杉田玄白に学び、水沢に帰って医師としても活動した。長英は当然、この養父の影響をうけ、蘭学を学びたいという志を抱いたに違いない。

 杉田玄白たちが「ターヘルアナトミア」を翻訳し『解体新書』として出版したのは、1774年である。1771年、玄白は「ターヘルアナトミア」を手に入れ、千住骨ヶ原で死体の解剖に立ち会い、「ただ、和蘭図に差へることなきに、皆人驚嘆せるのみなり。」と衝撃を受け、翻訳を決心する。しかし、翻訳は困難を極める。『蘭学事始』によれば、「シンネンなどいへる事出しに至りては、一向に思慮に及びがたき事も多かりし。」という具合で、分からない語句には丸に十文字の記号をつけていった。翻訳というより暗号の解読作業のようだ。ちなみにこのシンネン(zinnen)には後に“精神”という訳語があてられた。

 そして、杉田等の取り組みが――「一滴の油、これを広き池水のうちに点ずれば、散じて満地に及ぶとや。……此学海内に及び、其所彼所と四方に流布し、年毎に訳説の書も出る様にきけり。」と日本の蘭学普及の端緒となる。
 おそらく、このオランダ医学によって切り開かれた蘭学の勃興は、日本という国の枠の外から日本を眺めることのできる日本人を育てたと考えられる。解体新書は小さな波紋であっても、やがて約100年後の維新という大きな波につながったのではないだろうか。

 杉田玄白の弟子は1805年筆の『玉味噌』によれば、104人、38カ国にわたっていたという。内訳は東海道(伊勢、尾張、三河、遠江、甲斐、相模、上総、常陸、武蔵、安房)26人、東山道(美濃、信濃、上野、下野、陸奥、出羽)25人、北陸道(若狭、越前、越後、加賀、佐渡など)18人、山陰道(丹波、丹後、石見)6人、山陽道(美作、備前、備後)6人、南洋道(紀伊、阿波、讃岐、伊予)10人、西海道(豊前、豊後、肥前、肥後、日向)12人、畿内(山城)1人である(鶴見俊輔著『高野長英』より)。

 平岩さんにメールは yuh@lares.dti.ne.jp


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