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日本とベンガルを考えさせられた1日
2002年10月28日(月)
萬晩報主宰 伴 武澄
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横浜市開港記念館の向こうから交差点を渡りながら小柄なアジア人が手を振っていた。
道路を渡り切ったシャーカーはたばこに火を付けながら「会場は禁煙なのよ。そうそう友だちのモハマッド・アリ」と片割れを紹介した。
「あなたもバングラデシュの人」
「そうです」
「何やっているの」
「会社を経営しています」
「ほー、すごいね」
「モハマッドっていうからモスレムだよね」
「そうです」
10月20日、開港記念館では日本ベンガル協会(会長・我妻和男麗澤大学教授)の発足を記念して「日本・ベンガル地方文化交流100年祭」が開かれていた。シャーカーは協会の実質的な推進役。モハマッドは理事としてシャーカーを支えてきた仲だ。
「伴さん、きょうはバングラデシュじゃなくてベンガルだからね」
インドは独立時にパキスタンとセイロン(現スリランカ)が分離し、さらに20年後にパキスタンからバングラデシュが分離独立した。バングラデシュはベンガル人の国という意味なのだが、不幸なことにインド独立の時からベンガル地方は東西に分かれ西側はインド領、東側はバングラデシュ領となっている。つまり現在は四つのインドがあるが、歴史的に彼らがインドという時は分かれる前の状態を言う。
ベンガルはインドの中でも肥沃な土地で経済的にも文化的にもインドの中心地の一つであった。だから「ベンガル」という地名の響きはその大地が育んできた長い歴史に対する思いが多く詰まっている。同時に「ベンガル」と言った時にはヒンズーもモスレムもない。宗教で対立する以前の概念だから宗教的にも融和する語感がある。
興味のない人にはどうということもないかもしれないが、宗教的対立が深まるこの時代にヒンズー教徒のシャーカーとモスレムのモハマッドが日本との交流強化に汗を流している様はかなり感動的であった。インドとパキスタンとの間ではできないことが、ベンガルというくくり方をした時に可能になるということも現代的意味があるのではないかと思っている。
ここ数年ずっと「日本がアジアという時、インドを忘れているのではないか」という思いがあった。シャーカーも同じ思いだった。「日中国交30年だといって大騒ぎしているが、今年は日本とインドの国交50周年でもある。戦前にはもっと濃密な関係があった。そんなインドのことも忘れてもらっては困る」というのだ。つい先日も森喜朗前首相やインド大使が集まった日本・インド国交50周年の集いがあったが、大手マスコミはほとんど無視した。中国との間に長い付き合いがあるのと同様にインドとの間にも太い心につながりがあったことを忘れてはならない。
インドとパキスタンは1952年に日本と国交を結んだ。その前の年に日本はサンフランシスコ講和条約を結び、国際社会に再び認知されたのだが、ネルー首相はあえて「世界的な講和」とはタイミングを外したのである。太平洋戦争に対して戦勝国側と一線を画した「終戦処理」を選んだのだといわれている。その恩に報いたのか、日本側は戦後の政府開発援助(ODA)の供与の第一号にインドを選んだのである。
インドといった時、日本人が真っ先に思い浮かべるのがお釈迦様であるが、精神的にはやはり詩人ロビンドロナト・タゴールが近い。アジア初のノーベル賞受賞者というだけではない。タゴールの詩集が数多く翻訳され、タゴール自身も4回にわたり日本を訪れて、政治家から文学者まで幅広い層との交流を深めていた。
タゴールが日本に目を向けるきっかけをつくったのは岡倉天心だった。100年前の1902年1月、岡倉天心はカルカッタ郊外に住むタゴールを訪れ、10カ月もの長期にわたり滞在した。当時の日本とインドの最高の知が出会った時、「アジアは一つである」という言葉が生まれた。天心がカルカッタ在住時にタゴールとの共感から『東洋の理想』を書き下ろし、後の『アジアの覚醒』の草稿を練ったという。日本美術院を率いる岡倉天心はその後、横山大観ら数多くの弟子たちをカルカッタに送り込み、近代における日本とインドの交流が始まるのである。
この日の集いに参加したのは50人足らずだったが、ベンガル語の大家である麗澤大学の我妻和男教授や在日チベット人のペマ・ギャルポ氏ら著名人も集まった。我妻教授は、100年間の日本とインドの交流の意義について振り返り、ギャルポ氏は、岡倉天心が唱えた「アジアは一つ」について語った。
ギャルポ氏は「アジアほど多様性に富んだ地域はないのですが、天心が『一つ』と言った時、西洋による東洋支配という要素を抜きには考えられません。運命共同体としての『連帯感』を求めたのだ」と話した。そして日本は戦後、アジアへの共感や共鳴を失ったと嘆いた。
シャーカーは中曽根首相による「留学生10万人計画」の一環として来日、日本語習得後は、平凡社の子会社で印刷技術を学んだ。学んだといってもすでに日本に17年滞在し、結婚もした。ここ10年は独力でベンガル語月刊誌『マンチットロ』を発刊している。日本には3万人以上のバングラデシュ人がいるからけっこう在日同国人の間では有名な雑誌なのだ。
シャーカーが岡倉天心とタゴールの出会い100周年を祝う必要を感じたのは、失われたアジア的連帯を取り戻し、共感の輪を広げたいということなのだ。グローバル・スタンダードは一時的に富をもたらすのかもしれない。だが、東洋的多神教の世界にある「互いに認め合う」という精神は心の安寧をもたらす。白黒をつけるのではなく、白も黒もあるいは灰色でもいいのかもしれない。
そんな思いにさせてくれる1日だった。シャーカーさん、ありがとう。
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