アカデミーの活動について  事務長 林正夫

 一九四八年四月十八日、草取り会の当日、後楽園の慰霊堂に於いて、河辺大将からネタジの遺骨が高円寺の蓮光寺に仮葬されていることを教わり、驚きました。そしてお約束した命日八月十八日に初めて蓮光寺に行きました。式が済んだ後で望月住職や江守喜久子さんの紹介を受けました。当時不安な世相から、近隣のお寺は悉く預かることを拒絶されていたのを老師が体を張って蓮光寺に引き収られたいきさつや、江守さんは戦時中へ遺体の面倒をよく見るので「兵隊おばさん」として兵隊たちに親しまれていたこと、さらにINAの士官候補生としてネタジが日本に留学させていた四十五名の若き兵士たちの面倒を見たこと、今もなお数人の面倒を見ていることを聞かされて感動したことは今も忘れていません。そして、毎年八月十八日の命日には、江守さんが心から供養するの姿を見るにつけ、その人柄に引き付けられました。その頃は、インド側からメロトラ大使も必ず出席されてなごやかな慰霊祭でありました。
 一九五六年、たまたまネタジの死因調査団が来日しました。団長がシャヌワーズ・カーン将軍と聞いて驚きました。マレーからラングーン、さらにインパール作戦、イラワジ作戦と、常に行動を共にした人である。帝国ホテルに訪ねて顔を合わせたとき、お互いに無事であることを喜び、堅く手を握りあった感動は忘れることは出米ません。その頃の私は貧乏のどん底でした。人の保証をして家を明け渡し、行き先がなくて河辺大将のお世話で小石川の大日本忠霊顕彰会(後の日本慰霊奉賛会)の六畳間の一室でその日暮しの状況でした。招待したくとも到底無理なことであり、思案の末、日石の福島先輩にお願いして、日石の南元荘で招待することが出来て、何とか格好を付けました。
 当日の出席者は、シャヌワーズ・カーン将軍、ネタジの兄のスレス・ボース氏、マリク氏の三名、日本側から河辺正三氏、桜井徳太郎氏、磯田機関長、金子昇氏、遠藤庄作氏、日石の福島、山崎両氏でした。私の通訳で遺骨の話になったとき、シャヌワーズさんは「帰国したらインドから飛行機か巡洋艦でお出迎えにきます」との返事を得て、一同喜びあったことでした。しかるに、いよいよ帰国する当日、岩畔さんと二人で羽田まで見送りに行った時、スレス・ボース氏が、突然「ネタジは死んでいない」と言い出したのには唖然としました。シャヌワーズさんとマリクさんは怒って、私たちに別れを告げて先に行ってしまっても、「ネタジは死んでいない」と言い張ったままで、不自然な別れになりました。このスレス氏の言葉によって、今もなお問題が続いているのであり、今だに遺骨問題が解決できない素囚になっています。
 その後シャヌワーズさんは遺骨引き取りのため最大限の努力をされました。幾度となく私がインドに行った際に、遺骨の話に及んでは「必ず引き取る」と申されていました。特に一九八三年、デリーで会見した時、「目下大統領に話を進めているので、今度こそ大丈夫ですから、安心するよう日本の友人たちに伝えてほしい」と聞いて、私は小躍りして喜びました。しかし喜びも束の間、その年の暮にシャヌワーズさんの死去の知らせを聞いて、悲しみと共に不安の念が出てまいりました。
 調査団が帰ってから間もなく、江守さんの知り合いのネタジの甥マミアナト・ボース氏より「カルカッタのネタジの記念会館が出来たので、日本にもアカデミーを作って欲しい」と再三の要請が来ました。これが機縁で、一九五八年一月二十三日、スバス・チャンドラ・ボース・アカデミーが東京に設立されることになりました。そして第一回の会合が日比谷の陶々亭において催されたのです。会長に渋沢敬三氏、副会長に江守喜久子氏と岩畔豪雄氏、最高顧問に河辺正三氏、事務長に橘本洋氏の就任を得て発足しました。
 当日はインド側より大使代理夫妻、情報部の方々の出席、日本側の主なメンバーとしては、上記の他、有末精三氏、片倉衷氏、大島浩氏、高岡大輔氏等々、知名の氏が多数出席されてとても盛大な式でした。これが機縁となって、私は江守さんのお宅に足しげく通うことになり、そこで江守さんを頼ってくる多くのインド人だちとも知り合うことになりました。
 一九六三年十月、渋沢会長の御逝去により、河辺最高顧問他の推薦で、江守さんが二代目の会長に就任されました。「ネタジとは会ったことがないから」と固辞されましたが、河辺さん、岩畔さんたちのたっての申し出により、会長を引き受けられました。
 一九六五年、河辺最高顧問の御逝去により、有末精三氏、片倉衷氏が顧問となられてから一年後の橋木事務長の死去で、林が事務連絡の方を受け持つことになりました。江守会長御就任以来、アカデミーと蓮光寺の関係は親密の度を増し、老師と江守会長、林の三人で、ネタジの遺骨問題に関しては、いかなることも必ず蓮光寺とアカデミーとでよく協議することを誓い合うことになりました。 
 一九七〇年には岩畔副会長が亡くなられ、一九七八年五月に江守会長が御入院され、六月に御逝去されましたが、五月十四日、病院にお見舞いに行った際、「アカデミーのことをよろしく」との言葉がありました。それほどアカデミーのことが気になっていられることを知り、頭の下がる思いでした。
 一九七九年、片倉衷氏に三代目の会長に就任して頂き現在に至っています。
 光機関との関係
 一九四〇年代は、命日の八月十八日には個人個人の意思で蓮光寺に集まっていただけでしたが、アカデミーの発足とともに、河辺さん、江守さん、有末さん、片倉さん、橋本さん、岩畔さんたちが熱心にアカデミーを推進されました。特に岩畔さんの熱意は相当強く、光機関の方々にも呼び掛ける手筈でしたが、発会式には間に合わず、少し遅れて一九六八年八月十八日、光機関のメンバー約三十人が蓮光寺に集まり、活発な意見が出されました。それから毎年一月二十三日の誕生会と八月十八日の


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