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「世界国家」の歩み−その1
世界国家1954年2月号 村島歸之


 本誌「世界国家」はここに満8歳の春を迎えた。人間ならばまさに腕白ざかりというところ。しかも「世界国家」が歩んで来た8年は日本開びゃく以来の多事多難の時期だった。

 歴史上かつてない敗戦という厳粛な現実に直面した日本国民は、その進むべき道を見失って虚脱状態に陥ったのはやむを得ないとしても、天下の学者、政治家、識者までが「敗戦ぼけ」の症状を呈して、日本は羅針盤を失った船のように、ただ曳き船「占領軍」の曳くままに漂流していた観があった。マッカーサー元帥が「12歳の日本」といったのも、お世辞で、実は西東も判らない赤ん坊のようなものだったのだ。日本は再生せねばならなぬ。いいや現に再生しようとしている。その意味では、赤ん坊といわれても一向差し支えはない。ただ、その赤ん坊が一体、どこを目指して進むかが日本の問題であり、また世界の問題であった。

 日本はそもそも、どこへ行こうとしたのか。

 終戦の詔書が出て10日、昭和20年8月26日のことだった。終戦処理のため内閣の首班にすわられた東久邇宮から賀川豊彦氏に「首相官邸までおいでを願う」という通知だ。「何事だろう」と賀川氏が小首をかしげつつ出かけて行くと、宮は「内閣参与になってもらいたい」といわれる。氏はけげんな顔をして宮の顔を見た。するとそのわけを話された。「日本の道義は地におちてしまっています。日本再建のためには、まず日本人をこの道義の頽廃から振い起たせなければなりません。また日本が生まれ変わるためには、従来の外国人に対する敵愾心や憎悪の念を一掃し、世界平和を目指して進まねばなりません。この道義の振興と平和への切り替えのために、ぜひあなたの御協力を願いたいのです」

 つい昨日まで、反戦論者の、売国奴のと罵られ、軍部や官憲から白眼視されて、行動と言論を極端にまで抑圧されていた賀川氏は、一変して平和日本建設の立て役者の一人として檜舞台に立つことを要請されたのだった。

 日本は何処へ行かねばならなかったかについて、氏はかねてから考えかつ祈ってきたが、それを実現するよき機会を今、与えられたのだ。彼は内閣参与を承諾した、そして参与就任の2日目の8月30日には、読売新聞の慫慂により、マッカーサー元帥に宛てた長文のメッセージを同紙に発表した。敗戦国民の一人としてではない。氏が日本の進むべき道を、いな、日本が進まねばならぬ道を、進駐軍の最高司令官の前に披瀝したのだった。その末尾の一説に賀川氏はこう記している。

「総司令官閣下。戦勝国は広い心と思いやりがなければなりません。日本は今、詔書のお示し(万世に太平を開くとのお示し)のままにりっぱな世界国家として出発しようとしています、いたずらに、小さいわくの中に幽閉しておくことは、貴官らの理想とはるかに遠い結果を生むでしょう。日本人のこの心情と。人間としての実力とをもり育てるならば、日本の新世界奉仕の出発は、予想より強力に、早くなされるでしょう」

 「世界国家としての出発」というその「世界国家」の辞儀は、今日の「世界連邦」と同じではないが、平和日本として、世界と共に歩もうという世界平和への峻烈な悲願にはいささかも変わりもない。

 賀川氏は第二次大戦の始まった頃、京都において「世界を戦争から救う道は協同組合精神によって世界国家を樹立するほかにない」と説いたが、大学の教授も一般識者もこれを馬耳東風と聞き流していた。氏は終戦と共に、再びこれを天下に呼び掛けようと考えたのである。敗戦を契機としてまさに建て直しされようとする日本の同標は、この「世界国家」のほかにないと考えたのである。その土台となる平和運動の展開が必要である。氏は内閣参与の地位をこの方向に活用することを忘れなかった。いいやその事が参与である氏の使命であったのだ、といった方が当たっていよう。

 9月20日、東久邇首相宮は賀川氏の描いたプランにもとずき、まずその主な人々を首相官邸に招き令旨を伝えたが、その中でも、平和運動への協力を力強く要請しているのである。

「今後、わが国のすべてが敗戦の事実を深く認識し、今までの一切の行きがかりをなげうち、四海相和して、戦争中に敵国に対する憎しみを解消し、進んで国際間の理解と親善とを促進し、もって、世界永遠の平和のために努力しなければならないと思います。また敗戦に至る経過をふりかえってみますのに、私は国民一般の道議が近時著しく廃頽したように思います。道議の昂揚の必要を痛痒せずにはいられません。これらの目的達成をするために、諸君が一層努力せられんことをお願いいたします。そして道議及び文化の高い平和的新日本への第一歩を踏み出したいと思います」

 こうして賀川氏の平和運動は漸くその機が熟してきた。そして令旨伝達後一週間を経た9月28日の都下の新聞は一斉に「国際平和協会」の誕生を報じたのであった。

 その前日、27日、賀川氏のきも入りで首相官邸で開かれた懇談会は有馬頼寧氏が座長になって懇談を進め、この会合を創立総会に変更し綱領、定款、事業内容を決定し、国際平和協会は成立した、いうまでもなく、終戦後、日本で生まれた最初の平和団体であった。私は幸いにその時の謄写版の刷り物を保存しているので、それによって、創立当初における国際平和協会の内容を記してみようと思うのだが、それに先だって東久邇宮が、この賀川氏の計画に対し、総理大臣として大いに力瘤を入れたということを記して置きたい。

 たぶん、創立総会がすんだ日か、そのあと23日の間の事だったに違いない。賀川氏が総理との話が終わって辞去しようとすると宮は賀川氏を呼び止めて「これは僅かですが、平和協会創立の雑用の足しにして下さい」といって封筒を手渡したのだった。

 宮は総理大臣を辞し下野されて以後、いわゆる側近の人々にかつがれていろいろの企業や信仰宗教などに手を染められ、平和運動からは遠のいてしまわれたが、総理大臣として、また皇族としての最後の仕事の一つが平和運動への寄与であったことは、たとえそれが一時的であり、また僅かなことであったとしても、宮として有意義なことであったにちがいない。

 しかし、国際平和協会としてはそれっきり、総理大臣や皇族の庇護の下に立たず、あくまで純然たる民間団体として活動し、主として賀川氏らの貧しき財布と、同志会員の拠出金によって賄われて8年を経過し、今日に至ったことはさらに有意義だったといえよう。

 さて国際平和協会の創立総会はどんなことを定めたのか、まず綱領を見よう。

  1. われ等は万世のため太平を開き給う御詔書の精神を奉戴して世界平和に貢献せんとす
  2. われ等は侵略戦争の絶滅と、世界における徹底的軍備縮小の実現を期す
  3. われ等は世界における搾取と独占とを否定する協同組合的精神による国際的恒久平和の徹底を期す
  4. われ等は宗教、社会、政治、経済、教育、文化その他万般の人間活動を通じて、人類相愛互助の実現を期す

 右のうち、第一項は、その後の日本の社会情勢の変化に伴い、また第二項以下にも部分的修正がなされたが、その根本精神においては、いささかも変更もない。
 なお国際平和協会は純然たる民間の運動として展開するため、社団法人組織とすることとなった(その後、財団法人に変更)。そして定款には次の如く目的や事業を規定した。

  1. 本会は、国際間の戦争を絶滅し、恒久平和を図るをもって目的とす
  2. 本会は、その目的を達成せんがために宗教、社会、政治、経済、教育、文化その他万般の人間活動を通じて人類相愛互助の事業を行う
  3. 本会は、国籍の如何を問わず、本会の趣旨を賛同し、規定の会費を納入する者を以て組織す

 では国際平和協会は具体的にどんな運動を展開し、またどんな事業を行おうとしたのか。創立当初における事業計画の内容を示すために、印刷物をそのまま左に抄録して見よう。

 国際平和協会事業
 

  1. 宗教部
    • 世界各国におかる平和的信念を有する宗教の交流を計り平和の促進を期す
    • 宗教による相愛互助を通じて世界平和の確立を期す
  2. 社会部
    • 平和的手段による人種的差別の撤廃を期す
    • 平和的手段により階級的差別の撤廃を期す
    • 人類平和の確立に資すべき国際的社会事業の促進を期す
  3. 政治部
    • 国際間における憎悪、不信、及び不合理を除去するに必要な政治運動の実現を期す
    • 世界的国家の創造を期す
  4. 経済部
    • 一、搾取と独占とを否定する協同組合的貿易を通じて世界平和の促進を計る
    • 二、経済人並びに労働階級を通じて世界平和の促進を計る
  5. 教育部
    • 日本並びに世界各国の教科書を検討し、戦争激発記事を除去し、かつ平和的教材を強化し平和の促進をなす
    • 各国における青年学徒の旅行を勧奨し、真に国際人の養成を期す
  6. 文化部
    • 各国の文化、特に書籍、雑誌の相互輸入と著名なる書籍の翻訳、出版を奨励す
    • 映画写真絵画等の文化材による文化親善を計る日英両文による定期刊行物を発行す
  7. 企画部前期各部事業実施に関する総合的企画を計る

 右の中、最も重要なのは政治部の事業であるが、「世界的国家の創造を期す」の一項は、終始一貫、協会のバックボーンとして働き、今日の世界連邦樹立運動にまで発展してきているのである。

 なお創立当初の役員としては、賀川豊彦氏が理事長たることは今日も変わりはないが、理事、顧問は可成り、変動が認められる。理事には創立総会に座長を勤めた有馬頼寧を始め、徳川義親公、岡部長景子、田中耕太郎、関屋貞三郎、姉崎正浩、堀内謙介、安藤正純、荒川昌二、三井高健、河上丈太郎の名が見え、常務理事には賀川の労働運動の同志鈴木文治(元労働総同盟会長)が賀川氏の推薦によって就任した。しかし、鈴木氏は創立まもなく急逝し、その後は現在の小川清澄氏が賀川氏の最も善き女房役として貧乏世帯をやりくりしつつ8年間を持ちこらえてきたことは読者の知らるる通りだ。

 なお創立当初の計画では東久邇宮を総裁に、近衛文麿公らを顧問に推す考えであったが、国際平和協会が誕生していよいよ仕事を始めようとして、第1回理事会を総理官邸の一室で開こうとしていた10月5日、東久邇宮内閣は瓦解しさきに記すように宮は平和運動から遠のかれ、近衛公また敗戦の責を感じて自殺を遂げたため、これは沙汰やみとなった。終戦長後多忙の時であったから、時局をそのまま映して、役員の陣容に変動の著しいものがあったが、しかし、協会の針路はいささかの狂いを生ずることもなく、平和日本の建設のため、全国の同志に魁けて、無戦世界の実現に向かって、着々としてその歩みを続けている。


Japan Association for International Peace