1888(明治21年) |
0歳 |
7月10日、賀川純一(40歳)と徳島の芸者菅生かめの二男として神戸市兵庫島上町108番屋敷で誕生 |
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1889(明治22年) |
1歳 |
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帝国憲法発布 |
1892(明治25年) |
4歳 |
11月、父純一赤痢で死す(44歳) |
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18100(明治26年) |
5歳 |
1月、実母菅生かめ死す
1月、姉栄と共に徳島の本家に引き取られる
4月、徳島県板野郡堀江村第二堀江尋常小学校に入学 |
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1900(明治33年) |
12歳 |
4月、県立徳島中学校に入学し、寄宿舎に入る |
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1901(明治34年) |
13歳 |
胸部疾患の診断を受ける |
キリスト教徒を中心に「社会民主党」結成、即日結社禁止 |
1902(明治35年) |
14歳 |
宣教師A・C・ローガンに英語を学ぶ |
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1903(明治36年) |
15歳 |
4月、賀川家破産、叔父森六兵衛の家に移る |
幸徳秋水、堺枯皮、内村鑑三、非戦論を唱えて、萬朝報社を退社、幸徳、堺が平民社を組織、「平民新聞」を発刊 |
1904(明治37年) |
16歳 |
2月21日、宣教師H・W・マヤス博士より洗礼を受ける
安部磯雄、木下尚江の著作を読み、キリスト教社会主義に共感 |
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1905(明治38年) |
17歳 |
3月、徳島中学校を卒業
4月、明治学院高等部神学予科に入学する |
木下尚江、石川三四郎らキリスト教社会主義の機関紙「新紀元」創刊 |
1906(明治39年) |
18歳 |
徳島毎日新聞に「世界平和論」を投稿 |
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1907(明治40年) |
19歳 |
3月、神戸神学校新設により、転校を決め、9月開校まで愛知県の岡崎協会、豊橋協会で伝道を手伝う
8月、路端伝道を続け、41日目に発熱喀血し、危篤となる
9月、喀血甚だしく4カ月入院す |
社会主義者合同して日刊「平民新聞」創刊 |
1908(明治41年) |
20歳 |
1月、三河の蒲生郡、府相で9カ月保養する。「鳩の真似」(後の「死線を越えて」)の執筆を始める
10月、神戸神学校に復学
11月、結核性痔瘻の手術を京都帝大病院で受ける |
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1909(明治42年) |
21歳 |
苦悩の日々続く
9月、神戸茸合新川で路端伝道を始める
12月24日、貧民窟(神戸市茸合区北本町6丁目301)に入る |
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1910(明治43年) |
30歳 |
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大逆事件 |
1911(明治44年) |
23歳 |
4月、日本基督教会より伝道師の准允を受ける
6月、神戸神学校を卒業 |
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1912(明治45年) |
24歳 |
11月、貧民窟内に一膳飯屋「天国屋」と開業 |
鈴木文治ら労働組合友愛会組織 |
1913(大正2年) |
25歳 |
4月、和歌山市での日本基督教会浪速中会で教師試験に合格
5月27日、神戸日本基督教会で芝はる(25歳)と結婚
12月、「基督伝論争史」を出版(福音舎) |
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1914(大正3年) |
26歳 |
8月、プリンストン大学及びプリンストン神学校へ入学のため丹波丸で神戸から渡米
9月、夫人はる横浜の共立女子神学校に入学 |
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1915(大正4年) |
27歳 |
実権心理学の論文で神学校からM・Aのクレジットを受ける
11月、「貧民心理の研究」を警醒社から出版 |
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1916(大正5年) |
28歳 |
5月、プリンストン神学校からB・Dの学位受ける
8月、ニューヨークの貧民窟を視察、労働者の示威運動を見て、日本における労働運動の設立を思う
10月、帰国の旅費稼ぎのためユタ州オクデンの日本人会の書記に就職 |
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1917(大正6年) |
29歳 |
3月、雇主の横暴に抗議、日本人農夫とモルモン教徒との小作人組合を作り、争議を起こし勝利
5月、横浜に上陸、神戸新川に帰る
6月、夫人はる、共立女子神学校を卒業
6月、神戸貧民窟で無料巡回診療を始める
10月、友愛会神戸連合評議員となる
11月、日暮通6丁目に貧民窟授産事業として歯ブラシ工場設立 |
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1918(大正7年) |
30歳 |
4月、友愛会創立6周年大会で講演
5月、友愛会葺合支部長、神戸連合会評議員
8月、神戸連合会機関紙「新神戸」発刊を計画 |
7月、米騒動が全国に波及
吉野作造ら「黎明会」結成
東大学生ら新人会を組織
内村鑑三、中田重治、木村清松ら再臨運動開始 |
1919(大正8年) |
31歳 |
3月、大阪中島公会堂での治安警察法17条撤廃演説会で講演
3月、「新神戸」を「労働者新聞」と改題。発行人となる
4月日本基督教会から教師の按手礼と受ける
4月、鈴木文治、久留弘三らと友愛会関西労働同盟会を結成、理事長となる
6月、「精神運動と社会運動」を福永書店から出版
8月、総同盟の中央委員となる
11月、「涙の二等分」を福永書店から出版
11月、「労働者崇拝論」を福永書店から出版
11月、「涙の二等分」発禁となる |
全国区に普選運動起こる
8月、友愛会7周年大会で大日本労働総同盟友愛会と改称
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1920(大正9年) |
32歳 |
2月、大阪市で普選大示威運動
4月、「人間苦と人間建築」を覚醒社から出版
5月、大阪伸銅組合新進会組合長
6月、大阪印刷工革新同志会会長
6月、「主観経済の原理」を福永書店から出版
8月、上海に講演旅行
8月、大阪市に有限責任購買組合共益社を設立。理事となる
10月、有限責任神戸購買組合を創設、理事となる
10月、「死線を越えて」を改造社から出版
10月、「地殻を破って」を福永書店から出版
12月、播磨造船労働組合結成。組合長 |
5月、上野公園で日本初のメーデー挙行 |
1921(大正10年) |
33歳 |
6月、大阪連合会が藤永田造船争議について団体交渉権問題で、千路、造船所長に決議文を送り、賀川が会社側と折衝
6月、住友電線と住友製鋼両工場の争議応援の先頭に立つ
6月、川崎、三菱造船所の争議で実行委員となる
6月、「自由組合論」を警醒社から出版
7月4日、神戸湊川勧業館で神戸労働組合連合大会を開催「労働組合の確認を要求す」を決議、交渉委員に推される
7月18日、川崎、三菱造船争議の激化で「工場管理について」を発表
7月29日、川崎争議団1万3000人。賀川を先頭にデモ。警察官と衝突。負傷者出る。賀川ら幹部が検束される
8月10日、証拠不十分で拘束を解かれる
10月3日、友愛会中央委員となる
10月5日、奈良菊水楼で日本基督教会教職者会を開催「イエスの友会」を結成
10月17日、日本農民組合を杉山元治郎、村島帰之らと結成
12月、「イエスの宗教とその心理」を警醒社から出版 |
日本労働総同盟友愛会を日本労働総同盟と改称 |
1930(大正11年) |
34歳 |
1月、イエスの友会の機関紙「雲の柱」発刊、事実上の個人雑誌
1月、日本農民組合機関紙「土地と自由」を創刊
2月、夫人はるとともに、台湾に伝道
3月、新川で暴徒に襲われ、前歯2本を折る
4月9日、神戸YMCAで農民組合創立大会を開く
5月、「星より星への通路」を改造社から出版
6月1日、大阪市安治川基督教会で大阪労働学校を開校。校長
8月、国際労働会議の代表者に選出されるも辞退
11月、「生存競争の哲学」を改造社から出版
12月、長男、純基生まれる |
水平社結成
日本共産党結成全国基督教協議会開かれ、基督教連盟設立決定 |
1923(大正12年) |
35歳 |
1月、水平社の依頼で全国講演
1月、トラホーム悪化
4月、眼病悪化で大阪北浜の有沢眼科病院に入院
5月、「イエスと人類愛の内容」を警醒社から出版
8月、御殿場東山荘でイエスの友会修養会を開催
9月2日、関東大震災救援の為、山城丸で横浜入り
10月、東京市本所区松倉町にテントを張り、救済活動開始
10月、本所に移住 |
9月1日、関東大震災
甘糟憲兵大尉が大杉栄殺害
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1924(大正13年) |
36歳 |
3月、眼病悪化、急性腎臓苑を患う
4月、東京市外松沢村に移住
6月、政治研究会が設立され、執行委員となる
11月、全米大学連盟の招きで渡米。イギリス、フランス、デンマークなどを経て、聖地を巡礼。 |
小作調停法成立
高倉徳太郎帰朝。弁証法神学を紹介 |
1925(大正14年) |
37歳 |
6月、日本救ライ教会設立
7月、帰国
7月30日、御殿場東山荘でイエス友会修養会で「百万の霊を神に捧ぐ」を決議 |
治安維持法、普通選挙法成立公布。
農民労働党結成、即日解散。
総同盟分裂し、左派は日本労働組合評議会結成。
日本農民組合中心となり、3月労働農民党を結成、左右の対立激化し年末には左派優勢となる。
12月、右派分裂し社会民衆党を結成。
同月、中間派日本労農党を結成 |
1926(大正15年) |
38歳 |
2月、大阪紡織労組発会、組合長となる。
3月、大阪YMCAで労働農民党結成、中央執行委員となる。
同月、鳥取県米子の日本農民組合の講演会で検束され1時間半ほど留置される。
4月、トラホーム悪化、失明状態になる。
5月、安部磯雄、末弘厳太郎らと東京学生消費組合を設立。
6月、新潟県北蒲原郡木崎村の小作争議激化し組合側の作った無産農民小学校の校長に推さる。
7月、『神による解放』を警醒社より出版。
10月、家族と共に兵庫県武庫郡瓦木村高木東口に移る。
11月、「神の国運動」を開始
12月、『暗中隻語』を春秋社より出版。 |
新潟県木崎村で小学校児童盟休事件
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1927(昭和2年) |
39歳 |
2月、自宅で農民復員学校を一カ月間開校
4月、江東消費組合を設立
8月、軽井沢で百万人救霊運動競技会開催
10月、『キリスト山上の垂訓』を日曜世界社より出版
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金融恐慌起こる
普選最初の府県会議員選挙
高倉徳太郎『福音的基督』刊行
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1928(昭和3年) |
40歳 |
6月、庶民のための金融機関として中ノ郷質庫信用組合認可される
7月、全国伝道に出る
10月、全国非戦同盟を作る
11月、満州伝道に黒田四郎と出発 |
最初の衆院普選、無産政党8人当選、日本共産党員大検挙(3・15事件)
労農党、日本労組評議会など結社禁止
基督教連盟、社会信条を発表 |
1929(昭和4年) |
41歳 |
5月、『殉教の血を継承ぐもの』を日曜世界社より出版
7月、東京市長堀切善次郎より社会局長就任を懇願されたが、辞退、嘱託となる
8月、『神による新生』を福音書館より出版
11月、宣教開始70年記念・神の国運動宣言・信徒大会を日比谷公会堂で開催
同月、瓦木村より東京市外松沢村に再び移転
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宣教70年記念大会開く
教化総動員運動開始
世界大恐慌起こる |
11000(昭和5年) |
42歳 |
1月、肺炎から腎臓炎を併発、自宅で静養
5月、東京市社会局嘱託を辞す
6月、『神に就ての瞑想』を教文館より出版
7月、中国伝道に出発、8月帰国
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全国大衆党創立
失業問題深刻化す
大豊作で米価大暴落、農村の危機急迫
基督教学生社会主義運丼(SCM)起こる |
11001(昭和6年) |
43歳 |
1月、中国伝道に出発
2月、小説『一粒の麦』を講談社より出版
6月、『十字架に就ての瞑想』を教文館より出版
7月、カナダのトロントで開催の世界YMCA大会の招きで出発、11月帰国
10月、『神と永遠への思慕』を新生社より出版 |
満州事変起こる
東北例外、凶作で娘の身売り増加 |
11002(昭和7年) |
44歳 |
3月、台湾伝道に黒田四郎と出発
6月、『キリストに就ての瞑想』を教文館より出版
10月、『神と苦難の克服』を実業之日本社より出版
11月14日、宮崎県小林町の集会をもって第一期神の国運動終わる |
5。15事件で犬養首相射殺される
社会大衆党結党
確知に農民福音学校起こる |
11003(昭和8年) |
45歳 |
1月、『農村社会事業』を日本評論社より出版
12月、社会大衆党において顧問に推薦される |
日本、国際連盟脱退
国民精神作興運動起こる
ドイツにヒットラー内閣誕生
ドイツでニーメラーらを中心として卜し緊急同盟結成されドイツ的キリスト者に対抗 |
11004(昭和9年) |
46歳 |
2月、フィリピン基督教連盟の招きで伝道に出発
3月、『聖霊に就ての瞑想』を教文館より出版
4月、『医療組合論』を産業組合中央会より出版 |
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11005(昭和10年) |
47歳 |
2月、オーストラリア建国百年記念伝道に赴き、
7月、帰国
12月、米国基督教連盟の招きで渡米 |
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11006(昭和11年) |
48歳 |
7月、オスロで開催の世界日曜学校連盟大会で講演、その後、ノルウェー、スウェーデン、ドイツ、ベルギー、フランス、スイス、パレスチナを巡遊・帰国 |
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11007(昭和12年) |
49歳 |
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日中戦争勃発
戦時経済体制へ移行
日本基督教連盟「時局に関する宣言」「支那事変に関する声明」を発表 |
11008(昭和13年) |
50歳 |
4月、財団法人「雲柱社」を設立
5月、満州伝道のため神戸を出発
5月、『神と贖罪愛の感激』を日曜世界社より出版
11月、印度マドラスにおける世界宣教大会に出発 |
国家総動員法公布
メーデー禁止
産業報国運動起こる |
11009(昭和14年) |
51歳 |
3月、印度より帰国
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米国、日米通商条約破棄
第二次大戦勃発
宗教体制法成立 |
1940(昭和15年) |
52歳 |
4月、東京学生消費組合、当局の圧迫により解散
4月、『産業組合の本質とその進路』を協同組合新聞社より出版
5月、満州伝道のため出発
8月、松沢教会で「エレミヤ哀歌に学ぶ」を説教、反戦運動嫌疑で渋谷憲兵隊に拘引 |
労働総同盟をはじめとし、労働組合解散
救世軍幹部憲兵隊の捜索を受け、「平和の福音」紙型没収、8月解散、救世団となる
紀元2600年奉祝全国j基督教信徒大会であ8青山学院)プロテスタント各派合同を声明 |
1941(昭和16年) |
53歳 |
4月、キリスト教平和使節団の一員として米国に出発
8月、帰国 |
6月、日本基督教団成立
12月、太平洋戦争勃発 |
1942(昭和17年) |
54歳 |
8月、満州各地に伝道 |
聖教会、きよめ教会の牧師、信徒に弾圧 |
1943(昭和18年) |
55歳 |
1月、「宇宙目的論」の著述に精進
5月27日、反戦思想、社会主義思想の理由により神戸相生橋署に留置
11月3日、反戦論的行為ありと東京憲兵隊本部の取り調べを受け、公的な宗教運動困難となる |
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1944(昭和19年) |
56歳 |
5月、イエスの友機関紙『火の柱』終刊
10月、中国に宗教使節として出発、45年2月帰国 |
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1945(昭和20年) |
57歳 |
8月、東久邇内閣参与
8月19日、松沢教会で説教「世界国家について」
8月26日、東久邇内閣参与、
8月30日、読売報知に「マッカーサー総司令官に寄す」
9月、国際平和協会を設立、機関誌「世界国家」創刊
11月2日、日比谷公会堂の日本社会党結党式に「社会党万歳」の音頭をとる
11月、日本協同組合同盟を組織、会長となる
12月、日本教育者組合を結成、会長となる |
8月14日、ポツダム宣言受諾
8月15日、終戦詔勅放送
日本社会党結党 |
1946(昭和21年) |
58歳 |
3月、貴族院議員に勅撰されるが、1944年の中国における言動の責任を問われ登院停止
4月、『キリスト新聞』創刊
6月、新日本建設キリスト教運動を宣言、講師となる |
天皇神格否定の詔書公布
日本国憲法公布
日本おる同総同盟結成 |
1947(昭和30年) |
59歳 |
天皇、皇后両陛下に「社会s事業」をご進講
7月、全国農民組合長に推される
11月、『新協同組合要論』を日本協同組合同盟より出版 |
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1948(昭和23年) |
60歳 |
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1949(昭和24年) |
61歳 |
3月、新日本キリスト教運動終わる
12月、世界宣教協会及び世界キリスト教教育者協議会講師としてイギリスへ出発。西ドイツ、デンマーク、スウェーデン、ノルウェーを回り、 |
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1950(昭和25年) |
62歳 |
7月、アメリカにわたり、ペンシルベニア州のキュカ・カレッジから文学博士の称号
アメリカを経て50年12月帰国 |
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1951(昭和26年) |
63歳 |
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1952(昭和27年) |
64歳 |
6−7月、沖縄伝道
11月、世界連邦アジア会議を広島で開き、議長 |
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1953(昭和28年) |
65歳 |
1月、ブラジル伝道に出発、6月帰国
2月、世界連邦運動副会長に就任 |
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1954(昭和29年) |
66歳 |
7月、世界キリスト教第2回大会に出席のためアメリカに赴き、各地で伝道、10月帰国 |
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1955(昭和30年) |
67歳 |
2月、ノーベル平和賞候補者として推薦される
10月、日本社会党統一大会で社会党顧問に選任される |
バンドンでAA会議 |
1956(昭和31年) |
68歳 |
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1957(昭和32年) |
69歳 |
1月、タイ国伝道に出発、2月帰国
10月、京都で開かれた第3回世界連邦アジア大会で議長を務める |
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1958(昭和33年) |
70歳 |
1月、マラヤで開かれた国際協同組合同盟に日本代表として参加
6月、『宇宙の目的』を毎日新聞社より出版
7月、『空の鳥に養われて』をキリスト新聞社より出版 |
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1959(昭和34年) |
71歳 |
1月7日、関西伝道を終え、高松で心筋梗塞拡張症で倒れる。3月自宅に帰り養生 |
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1960(昭和35年) |
72歳 |
4月23日、上北沢3丁目自宅にて午後9時13分召天 |
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