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 世界平和に向かって人々はどう努力したか(2)

                      1952年2月 賀川豊彦


 近代国家の侵略戦争

 近世になって、各民族はそれぞれ王を擁立して国内の統一をはかり、近代国家を作りましたが、その勢力が強大になるにつれ漸時周囲の弱小国家へ手を伸ばし、その領土を広げるようになり、そのため、世界の至るところに戦争が誘発される結果となりました。17世紀以後に起こったフランスのルイ14世の数次にわたる大陸戦争や、ロシアのピーター大帝らによるバルト海の支配権争奪の北方戦争、英仏の植民地戦争等みなそれです。その上、30年戦争のような宗教戦争や、英国の名誉革命、さてはイスパニア、オーストリアの王位継承戦争なども加わって、ヨーロッパは戦塵の収まる日とではありませんでした。

 いいえ、ヨーロッパだけではありません。アジアでもマジェランの世界周航以来、西方の強国の魔手が、未開のアジア諸国の上に伸びて、ポルトガル、イスパニア、ロシア、オランダ、イギリスが至るところで侵略戦争をしかけましたし、日本でも、秀吉の朝鮮出兵などありました。

 こうしたからすの啼かぬ日はあっても、世界に剣戦が響き、銃弾の飛ばぬ日とてはなかったでした。しかし野心家の政治家や軍人は、とも角として、一般民衆は決してこうした戦争の続くのをよろこんでいたのではありません。みな平和を望んでいたのでしたが、彼らの力ではどうともできなかったのです。ただ心ある学者や思想家は、これを憂慮し、何とかして世界に平和の訪れる工夫はないかと、いろいろ考えをめぐらしていました。その中で、最も特筆されねばならぬのは、フランスのサン・ピエールと、ドイツのカントのでかい平和論です。

 ピエールの恒久平和論

 サン・ピエールは、英国と一衣帯水のノルマンディーに貴族の子として生まれた信仰をもつ学者でした。彼はルイ14世が帝国主義戦争を近隣の諸国にしかけることを痛哭し、戦争からヨーロッパ人を救わねばならなぬと考えました。

 それも一時的の平和では何もならない。それは河原の上に石を積むようなものだから−。そう考えて、すぐ崩れてしまうような平和−−ではなく、恒久的な平和の方策を立てねばならないとしたのです。そして1713年、ユトレヒト会議の行われた時、彼は有名な「恒久平和草案」なるものを発表したのでした。

 ピエールの考えは斯うです−−。

 人間は本来、利己的なもので、従って人と人とは、どうしても利害が衝突する。そこで「凡ての人間の、凡ての人間に対する戦争」というものは避けられない。戦争はだから人間の自然の状態といわねばならない。しかし、その戦争は必ずしも人間の利己的衝突を満足させるものではない。そこで、その戦争を停止し、また緩和しようとして、人々は互いに契約し、国家という法治社会が作られた(つまり彼は国家の成立を契約によるものとしたので、いわゆる契約説から出発しているのです)。こうして契約により各人が法によって、支配せらるる国家を作ることができたとすれば、これを一段と押し広げて各国家同士の間に、多くの国家を成員とする協同体が成り立たぬことはない−−こうして彼は国家連合の組織を提唱し、これにより恒久平和を実現するがよいと説いたのでした。

 もちろん、国家の共同体は、それ以前、スイスやネーデルランド合衆国やドイツ帝国でも実現されたことがありましたが、みな一時的で小規模のものでした。ピエールは、これを大規模に、且つ徹底的に実施しようというのでした。

 ピエールの恒久的平和草案

 ピエールの恒久的平和草案に提示された提案の中に後述のカントの平和論と関連ある重要な事項をあげると次の通りです。
  1. ヨーロッパの24のキリスト教国家が恒久的平和連盟を形成すること、もし出来得れば、回教国の君主もこれに参加せしめること
    この連盟の代表機関としてユトレヒト(当時平和会議の場所となっていた)に常設の国際評議会を置くこと
  2. 連盟はこれに属する国家がその規約に反しない限り、その内政に干渉しないこと
  3. 各連盟国は6000名以上の常備軍を有してはならないこと
  4. 一切の領土的変更は、それが侵略の結果である場合はもちろん、相続、贈与、譲渡等による場合と雖も、絶対的に禁止されるべきこと
  5. 一切の国際的紛議は、国際評議会の仲裁裁判によって調停せらるべきこと
 こうしてピエールは、ヨーロッパのキリスト教国家間だけではあるが、恒久的平和連盟の組織を具体的に提案したのです。

 カントの永遠的平和論

 ピエールの恒久的平和論についで、カントの永久的平和論が出ました。

 カントは1804年、80の高齢で没しましたが、彼は生涯妻帯をしませんでした、彼は近代ドイツの碩学ですが、当時、隣りのフランスでは革命のさい中で、このため反動化した王と其の侫臣が、彼の著書や論文に弾圧を加え、その講義にも干渉したので、彼は60歳頃までは、思想的には文字通り、いばらの道を歩みました。永遠的平和論を発表したのは71歳の時で、その頃、漸く彼の言論にも自由が回復したのでした。

 カントの平和論は、前記のピエールの平和論の影響を多分にうけていますが、ピエールに欠けていた平和主義の哲学的倫理基礎が、はっきりした点と、永遠的平和実現に至る体系的考査が試みられた点に、著しい進歩が見られます。

 カントは、戦争が個人間たると、国家間たるとを問わず、凡て道徳上悪であるということの倫理学的基礎として、斯ういう風にいっています。

 戦争は第一に法の権威を毀損するものでさかのぼっては、人間の道徳的本分にそむくものである。法というものは、人間の社会の無制限の自由の相互侵犯を調停し、道徳的自由実現の妨げになるものを取り除き、人格の品位を擁護しようとして成り立つもので、これを侵害することは人間の共同生活の理念にもとるものである−−と。

 つまりカントの平和論は、従来の平和論のように、戦争が単に人間の福祉をそこなうから、というような功利主義や薄っぺらな博愛主義から出発したものとは、格段の差のあることを知らねばなりません。
 
 永遠平和の予備事項

 こうして哲学的、倫理的基礎の上に立ってカントは、平和の実践要綱を記しているのですが、これを分けて予備事項と確定事項の二つにしています、予備事項というのは次の6項より成る−−。
  1. 将来の戦争を惹き起こすが如き材料を秘密に保留して締結せられた一切の講話は無効である
  2. 独立国家は大小を問わず、相続、交換、売買または贈与によって、他の国家の所有とされてはならない
  3. 常備軍は時を追うて全廃せらねばならない
  4. 国家の対外的紛争に連関して如何なる国債も起こしてはならない
  5. 如何なる国家も暴力をもって他の国家の憲法または統治を干渉してはならない
  6. 戦時中如何なる国家と雖も、将来の平和において、相互の信頼を不可能ならしめるような対敵行為、例えば、暗殺者または毒殺者の使用、降伏条約の違反、敵国における暴動の教唆というような行動をとってはならない
 この予備条項の裏にあるものは、国家間の平和を紊す国民相互の憎悪や恐怖−−つまり、敵意の感情を刺激したり、温醸するような原因を取りのけようというのです。いいかえれば、こうしたことは、法にそむき、また道徳に反するからで、世界平和はここから出発する必要があるというのです。(「世界国家」昭和27年2月号から転載)


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