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 ベルリンより
    
(『世界国家』1950年8月号から転載)賀川豊彦



 南ドイツの旅を終わって、私はベルリンに向かうことにした。ベルリンはソ連占領地区内にあるので、そこに行くためには、ソ連地区を通らねばならないのであるが、彼らは、どうしても、わたしたちの自動車の通過を許してくれない。何というせせこましいことであろう。私は空を自由に飛びまわる鳥を羨んだ。

 やむを得ない。わたしはニュレンベルグで一夜を過ごし、翌4月12日午前4時起床、自動車で市内を見学したのち、一路フランクフルトに戻った。地上をベルリンに向かって進めないため、遠回りをして、フランクフルトから空路、ベルリンにはいろうというのだ。

 飛行機は70人乗りの立派なもので、間もなくベルリンのテンプル飛行場に着陸。格納庫の大きいこと、B29なら、優に1000台は、そのままはいるだろう。ベルリンと英米仏とをつなぐ空のステーションとあって見ればこれくらいの施設も必要なのかも知れない。

 わたしは国教会ルーテル派の病院に付属した「母の家」の客となることとなり、すぐ自動車で、ベルリン見学に出かけた。市中が想像以上に破壊されているのを見て、悲しくさえなった。ベルリンを始めドイツ各地は、今後25年ぐらいは経過しても昔に復活することは六ケしいのではないか。まことに、祈らざるを得ない。

 ソ連地区の講演には、巨きな軍人の銅像が建っている。戦没者を弔っているのだというが、ちょっと奇異な感がする。

 午後3時からロシア地区内の「家の教会」で、監督クラマヘル博士主題の歓迎会に出席したが、ソ連地区から約30名の代表が集まって、いろいろと情勢を語ってくれた、ソ連の占領治下ではあるが、宗教活動は自由で、会衆の多いばかりか、戦前よりは、みんな真剣だという。米軍占領下の日本の教会と思い比べて、感なきを得ない。

 小学校内で宗教と教育は分離させられたので、正科としてキリスト教を教えることはできない。しかし、ベルリンの平信徒義勇隊約4万人は、年200万マルクを費やし、小学校校舎を借りて、キリスト教教育をしているとのことである。

 ではソ連占領地区内の人々は、みんな共産主義に左担しているのかと聞くと、事実は反対で、全ベルリンを通じ、最も反共産主義者の多いのはソ連占領地区内で、1000人中955人までは反共で、英、米、仏地区は1000人中、870人であるという。これも内地で想像していたところと全く違っていた。

 ケルンでホイス西ドイツ大統領と会った時、「ドイツにおいては、漸次共産党の勢力が失われつつある」と、大統領が語っていたのは、必ずしも西ドイツに限られた事実ではないことを確かめ得てうれしかった。賢明なドイツ民衆は、唯物的共産主義では、世界は救われないことを知っているのである。

 ベルリンの教会活動は、英米地区もソ連地区も想像以上に自由であり盛大だった。12日夜、アメリカ地区内のベルリン最大のスードステルンの教会で持った集会の如き、約3000人がすし詰めになって身動きもできない盛況で、別に修築中の会堂を第二会場としたが、ここの1000余の聴衆で満員。みんな立ったままわたしの話を聞いてくれた。話が終わって降壇すると或る老人は、いきなり、わたしの?に接吻し、また或る学者もわたしの手に接吻した。わたしにとっても全く忘れられない感激のベルリンの一夜であった。


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