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 西ドイツだより
    
(『世界国家』1950年7月号から転載)賀川豊彦



 清潔な貧民窟

 1950年4月4日、イギリスから飛行機で欧州大陸に飛び、それから自動車で西ドイツに着きました。戦後、最初の日本人として。

 まず、アーヘンから首都ボン市に走り、大統領ホイス氏を訪問。約45分間、土地問題や政治問題について語りました。彼は白髪童顔な経済学者で基督教社会主義者です。(会見記は毎日新聞社に通信したから読んで下さったと思います)ボンを去ってライン河畔のケルンを訪れ、そこの貧民窟を視察しましたが、その清潔なのに一驚を喫しました。またバンカと呼ぶ戦時の防空住宅に数十家族が住んで過群生活を営んでいるのには、別の意味で驚かされました。

 完備した炭坑の施設

 驚いたといえば、ルール工業地帯に這入って、その中心地エッセンの炭坑を視察して、その施設の完備しているのにも驚きました、なぜといって、そこにおける炭鉱夫の生活は、日本の総理大臣も遠く及ばぬものがあったからです。各個人が贅沢だというのではありません。施設が完備し、整頓しているというのです。日本の古い炭坑の棟割長屋や、監獄屋と呼ばれた飯場などは、一にも早く改善されなければなりません。

 軍国ドイツの心臓クルップ工場は、無残にも爆破させられていましたが、ライン河畔の風光は美しく、殺し合いや破壊を事とする人間を嘲笑しているかのようでした。工場地帯や、ラインの守りに就いた軍事要地は、破壊から免れていて、戦争があったのかいな、といった風情を見せています。

 受難週間の伝道

 わたしがドイツに這入った時は、ちょうど、受難週間でしたので、わたしの集会はどこでも厳粛に持たれました。しかし、昔は、週間中の金曜日の朝を聖金曜日といって、その朝は十字架を記念する瞑想の時が持たれる慣わしでしたが、今日ではフットボールを蹴って、リクリエーションの時と置き換える青年が多いといって、わたしを案内してくれたライトナー博士も悲しんでおられました。日本のYMCAがダンスをやらせるといって問題となっているのと思い合わせて、一種の感慨を禁じえませんでした。しかし、ウェストファリア州の中心都市デュッセルドルフ市のルーテル協会で、聖金曜日の礼拝に臨んだ時、さすがに大入り満員で、会場は三階まであふれ、3000と註せられ、入場しきれないで帰った者も多かったと聞かされ、ドイツの信仰未だ衰えず、と感じたことでした。

 基督者の奉仕事業

 このように、西ドイツ伝道は非常な熱意をもって進められていますが、わたしを喜ばせたのは、これらの伝道運動と併行したキリスト教徒の奉仕事業が、極めて活発に推進されていることでした。この熱意をもって進めば、ドイツの復興は、期して待つべしという感を抱かしめられました。ケルンに使いビードフェルドの公害、ペテルの奉仕事業など、社会奉仕とキリスト運動が、全く一つになっていました。

 スタットガルトなどでは、ルーテル派の人々によって五つの大きな平信徒の兄弟愛運動が展開されていますが、これ等は教派を作らず、教会内に踏みとどまって、平信徒伝道を中心にして伝道を助けているのでした。

 婦人の奉仕者2万人

 その夜、わたしはルーテル派の「母の家」に一泊したが、この母の家の奉仕者は、みは看護婦や産婆の国家試験をパスして一個の技能者となってから社会奉仕に出るという健実なやり方も、ドイツらしいと思いました。

 全ドイツのメソジスト約5万人、その中に約2000人の女奉仕者が居るということで、これらの奉仕者によって幾つもの大きな病院が経営されているのは、羨ましいかぎりです。


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