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1950年5月 少年平和読本「四方の海みな同胞」賀川豊彦


 中国の春秋時代に、呉王夫差が、越の国を伐つて、父の仇を報じようと志し、復讐の心を忘れぬため、毎夜、薪の中に寝て、自ら身を苦しめたといいます。また一方、越王匂踐も、呉の国を伐つて、会稽の恥をそそごうと志し、膽を室内に掛けて、これを嘗め、片時も報復を忘れないようにしたといいます。この故事から、仇を報じようとする志を抱いて艱難辛苦することを、「臥薪嘗膽」というようになりました。なお「会稽の恥をそそぐ」というのは、越王匂踐が、呉王夫差と会稽山で戦つて敗れ、あまつさえ捕らえられて、さまざまの恥をうけたという故事から、敵によつて受けた恥辱を忘れず、必ず復讐しようとする事をさして、そういうのです。

 また会稽の恥をそそぐといつて、いつまでも恥辱や怨恨を忘れず、敵愾心を抱いて復讐の折をねらつているとすれば、平和は、いつまでも訪れて来ないのです。現に、この故事のあつた春秋時代は、紀元前722年から481年まで約250年間も、諸国が互いに争つて、支那四百余州には、平和の日とてはなかつたのでもわかります。

 二千数百年前の中国の昔話ばかりではありません。日清戦争直後、日本が清国から割譲をうけた遼東半島を、ロシヤその他の三国の干渉によつて、清国へ還付せしめられた時、日本国民は、三国に対し憎しみと怨みを抱いて、それこそ臥薪嘗膽十年、「討てや懲らせやロシヤ国……」と唄い、ついに日露戦争に突入しました。そして日露戦争によつて復讐をとげた日本人は、四十年を経て、此度はソ連に復讐されました。もし、日本国民が、今次の敗戦から、ソ連を恨み、再復讐を考えるとしたら、どうなるでしょう。

 日本は、戦争を放棄しました。しかし、国際間の怨恨や、憎悪を、一切すててかからぬ限り、たとえ、憲法の文面で、戦争放棄を百萬言宣言しても、それは空証文に終つて、意味のないものとなるでしょう。戦争の絶滅を願う者は、何を措いても、まづ国際間の憎しみを取り去らねばならないのです。

 これについて思い起すのは、太平洋戦争が終つた時の中国の寛容な態度です。中国の民衆は日本軍の侵略をうけ、数々の残虐にあいました。もし、中国民衆が、この残虐行為を恨みにもち、日本人を恨み、敗残の日本兵や日本民衆に対し、復讐行為に出たとしたら、どんな事でしよう。この時、蒋介石氏はラヂオを通じ、次のように中国民衆に訴えて、その自制を促したのでした。

『中華民族の特性は旧悪を思わず、人に善を為すところにある。敵は打ち仆された。われわれは復讐を企画せず、敵国の無この人民に対しては、侮辱よりも憐憫を表示し、彼らをして、自らの錯誤と罪悪を反省せしむべきである。もし、暴を以て暴に報い、凌辱を以て、これまでの敵の優越感に応えるなら、怨と怨は相酬い、永久にとどまるところがないであろう。これは、決して仁義の師の目的とするところではない』

 このようにいつて、蒋介石氏は、世界平和に論及し、次のように言葉を結んだのでした。

 『世界の永久平和は、人類が平等自由なる民主精神と互助博愛の合作された上に、立てられるべきである。われわは、民主と合作に向う大道の上を進み、全世界永遠の平和を、協同して擁護しなければならなぬ』

 まことに、その通りです。怨を以て怨に報い、暴を以て暴に報じていたら、世にいいう「いたちごつこ」になつて、戦争は永遠にくりかえすに違いないのです。この蒋介石氏に言葉の中に「己れの如く隣人を愛せよ」「汝らの仇を愛し、汝らを憎む者を善くし、汝らを呪う者を祝し、汝らを辱しむる者のために祈れ」と、いつたキリストの言葉の、ひそむことを知らねばなりません。蒋介石氏はキリスト教信者なのです。

 明治大帝の御製に

 四方の海みなはらからと思う世に
   など波風のたちさわぐらん

と仰せられてあるのを、御存じでしよう。世界の人々が、みなはらからと思ひ、四海同胞の意識を持つなら、仇をも愛することが可能となるのです。

 世界の全人類が、この四海同胞の考えに徹底し、宇宙に対する各自の責任を自覚し、人類愛の立場から他人の欠点をも自分の欠点として考え、他人の尻拭いをして廻る気持になるなら、人種問題も、異民族間の憎悪も、怨恨も、立ちどころに拂拭されるのです。肌の色の違いや相異や、国語の異同などは、問題でなくなつて、兄弟のように相親しむことができ、世界を破滅から救い出そうとして考え出された世界連邦政府の樹立も、実現が早くなるのです。

 実際、われわれは、戦争には、もう懲り懲りです。それは、余りにも罪悪に満ちているからです。ジョン・プライドという学者は「一切の人類の罪悪を総括したものが、すなわち戦争である」といいました、つまり、戦争は、あらゆる罪悪のかたまりだ、というのです。みなさんは、モーゼの十戒を知つているでしよう。殺す勿れ、姦淫する勿れ、盗む勿れ、隣人に対し虚妄の證據を立つる勿れ等、等……ところが、戦争はこの十戒の凡てを蹂躙するのです。

 普通の精神状態の人間なら、到底そのひとつさえ犯すことのできないことを、戦争となると、人間は一時的精神異常状態になつて、野獣さえ顔負けの、あらゆる残虐行為を敢てするのです。もし、人間同士の憎しみの情がなかつたら、つまり、人間同士が、もつと愛しあつていたら、こんな怖ろしい破戒行為はできない筈なのです。

 キリストは、モーゼのように、殺す勿れ何する勿れと、一々戒律を定める代りに、人間相互が憎しみを持たず、互いに相愛せよ、といつているのです。四海同胞という兄弟愛によつてのみ、一切の人類の罪悪が除かれ、その罪悪のかたまりの戦争をも、回避することができるのです。

 日本は戦争放棄を宣言しました。それは決して、戦争に敗けたから、己むを得ず、戦争をやめるというのであつてはならないのです。正義と秩序を基調とする国際平和を願うのあまり、国際紛争解決の手段としての戦争を、永久に放棄したのです。ですから、われわれは人類愛の精神を、心に奥深く掘り下げ、兄弟愛意識に目ざめて、人種間の差別感や、憎悪の心をきれいさつぱりと拂拭しなければなりません。

 将来の日本を背負うて立つ少年諸君よ!人を憎み、人を恨むことをやめて、兄弟仲よくし、四方の海に荒浪一つ立たず、金波銀波の平和の世界を実現させようではありませんか。(「国際国家」1950年4・5月号)


Japan Association for International Peace