I・N・Aの憶い出 H・S・クマール

 I・N・Aの憶い出 H・S・クマール
 私は一九四一年にはマレーシアで学校の生徒でした。インドのラホールのパヴリック・スクール時代から歴史に深い関心を持っていました。日本がロシアに勝ったことを学び、アジアの力がヨーロッパの勢力を撃破したことに感動し、インドがイギリスの支配から解放されることに情熱を燃やし希望を抱きました。一九四二年には日本は東南アジア全域を征服しました。それでインド独立闘争に破れ、日本に亡命してインド独立連盟を組織していた我々の偉大なラス・ビハリ・ボースはインド独立運動の本部をシンガポールに置きました。
 私は一九四二年にインド独立運動に参加し、北部マレーの青年部長として活動していました。
 一九四三年に偉大な指導者で政治家のネタジ・スバス・チヤンドラ・ボースが現われ「自由インド仮政府を設立し、日本を始め多くの国から承認されました。ネタジはインド国民軍(INA)の最高司令官になり、INAの志願兵を募集しました。私はその募集に応じたところ、ネタジ・S・C・ボースによって、日本の陸軍士官学校で軍事訓練を受ける候補生に選ばれました。それで東南アジア全体から選ばれた他のインド人四十四人と共にシンガポールで日本での教育を受ける準備のための日本語の勉強や軍事訓練を受けたのです。
 一九四四年に船で日本に送られる途中、アメリカ空軍や潜水艦の攻撃に遭ったが無事東京に着き、興亜同学院に収容され、そこで陸軍士官学校のカリキュラムが理解できるように日本語や日本の歴史などの教育を受けました。
 一九四五年一月、陸軍士官学校に入学が認められ、アジア各地からやってきた若者たちと一緒に日本の士官候補生と全く同様に教育されました。それはまさにアジアの進軍を思わせるものでした。
 興亜同学院に在学中に、私たちは、江守夫妻の東京の邸宅で大変お世話になりました。江守さんの家族は私たちと同じ年頃の和子さんと君子さんという二人のお嬢さんがおられました。私たちインドや他の国の留学生たちは江守さんから家族の一員のようにもてなされました。開放された家庭の中で愛情や食物を与えられ自分の家に居るような安らぎを与えて頂きました。ゴット・ペアレントの江守御夫妻から一九四五年八月十五日の戦争終結から同年末インドに帰国するまで私共の生活が最も困難な時代に私共に愛情を注ぎ安心を与えられ生きる希望を与えて下さいました。
 日本の士官学校では尊敬するネタジ・S・C・ボースの指導のもとに自由なインド独立国家を樹立するという崇高な大義のために私共の生命を捧げる運命にあることを教育され刺戟を受けた。私は「神風パイロット」と一緒に入浴していたことは生涯決して忘れることはできません。明日は飛行機に乗り再び帰らないのに、日本の大義のために犠牲となることに恐怖も感ぜず静かに毅然として入浴していた私どもの年代の若いヒーローたちでした。
 私は一九九二年十月二十三日、東京の偕行社で行なわれる祭典に出席できるように松島和子さんから招待を受けた幸運なインド人候補生の一人です。インドに帰国して以来、四十七年ぶりの東京でした。戦争が終わり帰国するまでの間、私共のゴッドマザーであった江守さんの娘さんの松島さん御一家の御好意によるもので夢のような現実でした。忘れがたい教官だった梅田大尉との邂合、一緒に訓練を受けた候補生たちと会食、ネタジ・ボースの遺骨を安置した蓮光寺や、靖国神社への参拝、驚くほど繁栄した東京の街の観光、懐しさや楽しさで一杯でした。一九九五年九月二十三日の五十年式典には日本政府企業が招待してくれないかなどと考えたりしました。再度松島さんに招待を期待することは適切ではないと思ったのです。私は参加できなくても祭典の期間は心の中で参加するつもりです。(村田抄訳)


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