肩書きはずしノウハウを伝えあう記者と編集者のサイトを提案(1)『新聞研究』1998年6月号から一部修正して転載
1998年06月09日(火) | |
畑中さんへ |
どんな仕事をされているのですか? 初対面の人に尋ねられると、かつてなら「○○社の記者です」と答えていた。しかし近ごろ「○○社の」を省略して答えることが多くなった。企業の枠を超えた人と人の関係性を模索するためである。 ●社を超えたIREの試み IREという組織をご存じだろうか。朝日新聞のリクルート報道を陣頭指揮した山本博氏に賞を授与した米国の団体といえば、思い出す人もいるのだろう。IRE=Investigative Reporters and Editors Inc. 直訳すると、調査報道をする記者と編集者。調査報道記者編集者会議とも訳される。この団体は、私たちの仕事を考えるうえで実に示唆に富んでいる。 私がこの組織に強い関心を抱いたのは、知人のフリーライターから勧められた 『アメリカ・ジャーナリズム』(下山進著、丸善ライブラリー、1995年)がきっかけだった。内容は、文藝春秋の社員が米国コロンビアジャーナリズムスクールに1年間留学したときに取材した話をまとめたものだ。正直、なにを今さらという気分で読み始めたのだが、この団体の生い立ちや活動内容を知るにつけ、自分の無知と怠惰さに赤面せざるを得なかった。 IREに参加したこともない私に多少の知ったかぶりを許していただき、インターネットのホームページ( http://www.ire.org/)と関連書物から、簡単に紹介してみたい。
アリゾナ・プロジェクトという伝説 産声を上げたのは1975年。捜査機関の汚職を暴露してピュリツァー賞を獲得したインディアナポリス・スターの記者たちが、米全土の検察・警察の腐敗を調べるため、各地の地方紙と共同取材したという。このとき22歳の記者が、他の地方紙の記者と報道の手法を教えあう場が必要ではないか、と提案した。これがきっかけで、わずか4人の会合が開かれ、IREの母体が生まれた。ワシントンポスト紙のウォーターゲート報道の興奮が冷めやらず、全米各地の新聞社が調査報道班を続々と編成していた熱い時代の話である。 象徴的な事件が翌76年に起きる。設立メンバーの1人でアリゾナ・リパブリック紙のドン・ボールズ記者が、地元の政財界や官僚とマフィアとの黒いつながりを取材中に暗殺された。事件は、IREがインディアナポリスで第1回大会(創立総会)を開く数日前に発生したこともあって、IREは急きょ、ボールズ記者の遺志を継ぐ計画を練り、全米の記者たちに参加を呼びかけた。 やがて、各地から有志の記者がアリゾナに集う。ニューズデイ紙のロバート・グリーン記者を核に、28の新聞・放送局から延べ38人がプロジェクトに参加した。とはいえ、参加者全員が全期間を通じて参加できたわけではない。ニューズデイ紙などは全面的に協力したようだが、中には、休暇を利用して参加するなど、時間的なやりくりが大変だった記者も多かった。なぜならこのプロジェクトは、無報酬のボランティアだったからだ。 半年にわたる取材の成果は、77年に23回のシリーズにまとめられ、ニューズデイや参加記者の所属新聞社、それにAPなど通信社を通じて全米に伝えられた。取材の過程で、マフィアとアリゾナ当局ののつながりが暴露され、ボールズ記者を殺害した容疑者も逮捕された。こうしてアリゾナ・プロジェクトは、記者仲間の弔い合戦という性格も手伝って、伝説として語り継がれることになった。 ただ、忘れてならないのは、その背景に、企業の枠を離れた記者たちの熱意と、それに理解を示した会社の懐の深さがあったということだ。 IREは、このプロジェクトだけで役目を終えたわけではない。その後も会社を超え、メディアを超え、フリーランスを含めて毎年大会を開き、取材手法を伝えあう息の長い活動を続けている。そこで訓練を受けた記者の中からは、ピュリツァー賞を獲得するようないい仕事をしている人も多い。 コンピューター補助報道の試み NICARのホームページ( http://www.nicar.org/ )によると、電子ファイルの扱い方から、各種データベースへの接続方法、電子データを表計算ソフトなどを使って分析する方法などが、段階別に細かく設けられている。ミズーリ以外の土地でキャンプをしたり、ネット上でもセミナーを開くなど活動は活発のようだ。 『日本の情報化とジャーナリズム』(桂敬一著、日本評論社、95年)でも、そうしたIREの調査報道例がいくつか紹介されている。例えば、オハイオ州のクリーブランド・プレイン・ディーラー紙の例。同紙は、公立学校に給食材料を納入する業者の価格決定、食品検査、少数民族の差別雇用などをスクープしたが、それが可能だったのは、連邦や州食料薬品局の関係文書から、業者の決算書・納税書類、入札記録にいたるまで、実に多様なデータが電子ファイルとして公開され、それらをコンピューターで分析できたためだ。 対照的な日本記者事情 記者は企業間競争からなかなか逃れることができず、1つの企業内でも、政治部、経済部、社会部が、縄張りをめぐり、あるいはアプローチの違いから反目しあうことは珍しくない。コンピューターはもっぱら合理化の道具として導入され、調査報道の武器にしたという成功例もほとんど聞かない。そればかりか、コンピューターを毛嫌いする人はまだ多い。 ただ、誤解してもらいたくないのは、日本のジャーナリストもIREを見習いましょう、などという簡単な結論を導き出そうとしているのではないということだ。 日本とアメリカでは文化的背景が大きく異なる。記者に限らずホワイトカラーの多くが当たり前のように転職する雇用風土があり、愛社精神の質も違うだろう。そればかりか、日本では公的な文書やデータ類の電子化がそれほど進んでおらず、電子化されているものにしても、役所や企業はそういったデータを簡単に公開したがらない。見習おうにも見習いようがない。 『新聞研究』編集部から原稿依頼を受けたときも、正直、ずいぶん悩んだ。 そこで、恥をしのんで自らの歩みを振り返り、少し希望的な提案をしてみたい。 私は1985年に毎日新聞社に入社した。広島・京都両支局で先輩たちから記者としての基礎訓練を受け、大阪社会部に異動後、病気や生活困窮などのため退社した。その後、日本経済新聞社系の出版社で、月刊誌の編集者としての仕事を学び、共同通信に再転職した。 新聞社時代は、正直、鼻持ちならない会社人間だった。毎日新聞を愛し、毎日新聞の栄誉のために尽くすべく働いた(つもりだ)。競合紙の記者の前で取材手法に関する話題は努めて避けたし、記者クラブの問題点につても、頭ではわかっていながら「仕方ないじゃないか」と開き直っていた。 だが、月刊誌『日経トレンディ』編集者になり、ものの見方が変わった。記者クラブという便利な場所が利用できず、記者会見にも出られない。夜回り用のハイヤーなど使えるはずもない。 頭ではわかっていたつもりだが、このときほど新聞協会加盟社の記者の特権の大きさを痛感したことはない。いや、私などまだましなほうだ。フリーライターの生活は過酷である。公的な情報を得るときでさえ、ずいぶん遠回りをしなければならないことがあるのだから。 その後、私は縁あって共同通信社に転職し、経済部に配属された。再び記者クラブの日々を送ることになる。毎日のように官庁や企業が発表する素材を記事にするしなければならなかった。そんなとき、いつも胸をかすめたのは、雑誌時代に感じていた疑問――あらゆるニュースが協会加盟社の記者を通して国民に伝えられている。そして、その他のメディアで働くジャーナリストは後回しにされるか無視されるかのどちらかだ。これは、この国全体の情報の流通にとって、好ましい状態なのだろうか――という疑問だ。 (続) 畑中 哲雄氏は共同通信社大阪支社ラテ部記者。1997年からホームページ Press Roomを主宰。辛口コラムと内外の報道機関、統計などへのリンク集が好評です。OfficialMailは press@ing.alacarte.co.jp |
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