2000年12月24日
まだ国民全体のうねりにはなっていないが司法改革の声が高まっている。
住専で名を挙げた中坊さんのような"本物"的存在も熱心に動いておられ、頼もしさを感じさせる。だが、司法というものは果たしてピッタリ今流の改革になじむものだろうか。
今次大統領選挙におけるアメリカ司法の動きには、他山の石として考えさせられることが幾つかあったのだが、締めくくりの段階、敗北を認めたゴア候補のメッセージにも、的外れかも知れないがいささか気になる個所があった。最高裁判所の判決は承服し難い、という趣旨の個所である。
Common Law of England 、英米法では裁判所の判例体系が法の主体を形成し、議会での制定法はこれを補うものとして従の位置に格付けされている。裁判所に対するアングロ・サクソンの民族感情には、どこか皇室に対する日本人特有の心情に似通ったところがあるのかも知れない。
いま、「法の支配」とか「法治国家」ということが思想としては全世界的な拡がりを見せている。しかしそれを現実に達成するには、いま述べたような庶民感情が長い年月をかけて醸(かも)し出されることが必要なのかも知れない。そんなところから先般のゴア発言に、私は私なりの驚きを覚えたのである。
アメリカの国家元首を目指した人の公式メッセージで、世界的な影響だって考えられるのだから、言いたいことを多少控え目にして最高裁の権威に対する畏敬の念もにじみ出るようにする余地もあったろうに、というわけである。
そこで日本のことになるのだが、裁判の公正と裁判官の廉潔に疑問を差し挟む向きは、国民の間にも先ず見受けられないと言っていい。この信頼感は一朝一夕に出来上がるものではない。世界に誇るものを次々に失ってきた日本にとっては、残り少ない無傷(むきず)の貴重財産だということができる。
確かに裁判が遅いという重大欠陥はあるし、裁判官が世情に疎(うと)というのも事実だろう。しかしよく考えてみると、その原因の半分以上は「法律の濫造」という外部要因にあるのではあるまいか。
鉛筆を舐めながら最初の法律案を書き上げるのも、それに手を入れたり判を押したりするのも概ね行政省庁の若い"エリート"たち。転勤が多過ぎて必ずしも専門知識が身についているとも言えないが、それにもまして世情に疎い人たちである。閣議を経て国会に提出される内閣案が、"理性"に偏った堅苦しいものになっていて世間的な道理感覚に欠け、素人分かりのするものになっていないのも不思議ではない。
その議決に当たる国会に至っては、理性面の素養さえ怪しい議員が少なくない。こうして粗製,濫造された法律と,(凧のシッポのようにそれに付随する)各省庁作成の政令などが裁判官を拘束する。これでは、大岡裁きの名を後の世に残した越前守忠相のような資質の裁判官がいても、過重な受持ち案件に加えての膨大な法規照合作業に足を取られ、天分発揮に至らないまま来る年、来る年をやり過ごしてしまうのではないか。
判決文の分かり難さも問題だが、元々分かりにくい法律の条文そのものを含めて,法的な判断や規制内容を"庶民分かりのする"文章にするには、今までに数倍する時間を掛けなくてはなるまい。これ一つだって意識変更を不可避とする点で文字通り革命と呼ぶに値する難事業である。
主権在民を司法分野にも及ぼそうと中坊さんも熱心だが、その目玉になっている陪審制度だっておいそれと日本の風土に根付くとは限らない。司法に対する国民のコントロールと言えば聞こえはよいが、最高裁判事に対する国民審査のようなものをいくら並べてみても気休めにしかならない。
乱暴なようだが、そんな綺麗ごとよりも、司法に対する国民の信頼を存続させ、法律そのものが難渋なものになってしまっている司法の現状にメスを入れ、裁判と裁判所に対する尊崇の念を醸成することに主力を注ぐ方が賢明ではないだろうか。
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