スバス・チャンドラ・ボースの思い出 大島浩

 スバス・チャンドラ・ボースの思い出 元ドイツ駐在大使・陸軍中将 大島浩
 一九五七年十月二十七日、東京で私の存じ上げるスバス・チャンドラ・ボースの甥にああたるアミヤ・ナト・ボース氏にお会いでき、喜びに耐えませんでした。このとき、インド独立のため勇敢に戦った戦士たちをたたえる記念式典が開催されていることを知りました。インドの人々とともに偉大なる指導者に対する尊敬の念を表す機会を共にできることは、私にとって無上の光栄です。
 私の記憶では、一九四一年二月、私が日本の大使として初めてドイツにまいったとき、スバス・チャンドラ・ボース氏が大使館に訪ねられたのが最初です。初めての出合いで、訪問者のインド独立に対する強い意志と燃え上がる情熱が私に強い印象を与えました。その後、何度か会い、打ちとけた話のうちに、氏が独立の最終的達成を信じていることが分かり、私はご援助することができませんでしたが、我々にできる方法があればどんなことでもお助けしたいと強く感じました。
 アメリカ合衆国と大英帝国に対し宣戦を布告した際、スバス・チャンドラ・ボース氏のアジアの戦場でインド独立のために共に戦いたいという望みを抑えることは不可能でした。それを実現するためにさまざまな試みが行われたが、さまざまな障害も存在しました。まず、彼が独立運動の指導者たちと連絡することが困難だったこと、第二にドイツの指導者たちがボース氏をドイツ国内にとどめておいたほうがよいと考えていたことです。
 当時ドイツ政府はボース氏に広大な邸宅、自動車ならびに経費を提供し、外務次官を長としてボース氏およびその一党の世話をさせていた。それとなく、彼らにあたってみると、ドイツ政府は深くボース氏を信頼し大なる利用価値を認めて、長くとどめ置かんとする意向がうかがわれた。最後の頼みの綱として、ボース氏はアドルフ・ヒトラーとの直接会見の斡旋依頼しに、私を訪ねられました。ちょうど日本軍がインド国境まで進撃していたころで、ヒトラーはスバス・チャンドラ・ボース氏を国外に出したほうが賢明であると考えました。数日後、リッペントロップ外相の招きに応じ訪ねると、インド洋まではドイツ潜水艦をもって送るから、それ以後は日本潜水艦に収容せられたしと提案された。私は、このことをお伝えしたときのボース氏の喜びの表情を今でも鮮明に思い起こすことができます。
 このことを日本政府に申請しましたが、当時の日本においては、まだボース氏の人物も明らかでなく、また外国人を潜水艦に乗せることには海軍から異議があって容易に決着せず、大いに気をもんでいる中、ドイツ潜水艦出航の朝、ようやく特例としてこれを認める旨の日本政府よりの来電があり、一同ほっとしました。
 ドイツを離れるという夜、私は極秘裏にスバス・チャンドラ・ボース氏を訪ねました。十二時にベルリンを出発する直前でした。ボース氏は宿願達成に、喜色満面コニャックの杯を上げて、到着後の抱負を語り、いわゆる志士の面目躍如たるものを感じさせられました。すでに氏は航海に同行する秘書に特に回教徒の方を選ばれていました。これはボース氏がヒンドゥー教徒と回教徒の調和に深い関心を抱いていたことをはっきり示しています。私の記憶するスバス・チャンドラ・ボース氏と私のすべての事柄を語ることは不可能です。
 ボース氏の殉難は一九四六年初め、巣鴨刑務所において初めてこれを聞き、ベルリンでの決別を思い出し、万感胸に迫るものがありました。しかし彼の献身と輝かしい成果はインドの人々と同様、世界中の人々に永く記憶されるに違いありません。私は、ボース氏が、インドの人々の愛国心が勝ち取られたものに大いに満足していることを確信いたしております。


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