ネタジに近侍したころの思い出 根岸忠素

 第三章 スバス・チャンドラ・ボース氏への追憶

 ネタジに近侍したころの思い出 元光機関員ネタジ専属連絡員 根岸忠素
 アジアに忽然と現れたボース
 岩畔機関ビルマ支部に出向中、急電を受け急きょ昭南(シンガポール)に赴いたのが一九四三年五月十四日。陸軍の重爆撃機に便乗しガラン飛行場に着くと、出迎えの機関員に伴われ郊外の千田司政長官の私邸に案内された。
 戦前から旧知の千田さんへのごあいさつもそこそこに申し渡されたのは、まだ秘密の段階だがと断って「近々インド会議は領袖のチャンドラ・ボースを迎えることになった。君も知っているだろう大物中の大物ゆえ慎重に対応せねばならぬ。そのためには身辺のお世話と諸々の連絡役にしかるべき日本人を配属すべく、軍、外務と話し合ったが人選に行き悩み、司政長官に一任ということから君を思いついたわけだ」と言われた。
 ことの重大さに驚き、その任ではありませんと辞退すると「もう遅い。そんな余裕はない。ボースは両三日中にも到着する。自分のそばに居ることだし、誠心誠意つかえればいい、なまじ出過ぎた振る舞いをして忌避されるようでは困ると抵抗できなかった。
 その夜は千田邸に泊まり、翌朝、長官に伴われて「光」機関本部で申告もそこそこに機関長山本大佐、千田長官と私の3人はスマトラ西北端のサバン島に向かった。そこで二カ月も前にボースを乗せたUボートが南仏の軍港から大西洋を南下し、喜望峰を遠く迂回してマダガスカル島の沖で日本海軍の潜水艦に移乗、あす午前中に到着するという。
 占領地区とは思えないこの軍港の岸壁で待機する時の私の心境は、正直なところついこの一年半前までは、六年にわたったカルカッタに続き三年間を上海ですごしたことから日中和平恢復を願う一方、地元の華字紙に「威爾斯親王号(Prince of Wales)、堂々星港(Singapore)入港」と写真入りで載り、また米大統領の日本天皇へ親電の記事に、戦争にはなるまいと思っていた矢先に12月8日未明、鋭い砲声(第三艦隊旗艦、出雲が英砲艦ペテル号を撃沈)に目を醒ますと、時を移さず海軍陸戦隊に出頭を命じられて、初めて開戦と真珠湾奇襲成功のニュースを知り、ブロードウエー・マンションの翻訳室に回された。
 一週間も経ないうちにプリンス・オブ・ウエールズ、レパルス撃沈の第一報が入り、「お見それしました」の気持ちに一変して、いまさらのごとく実戦となってのサイレントネイビーの底力に頭が下がる思いであった。
 年が明け本社から南方出張の電令を受けたのは戦線の進展に対応するためで、とりあえずバンコクに向かう東亜海運の貨物船に乗り込んだ。本船には乗客は私だけで、すでに迷彩が施され、船尾に木製の疑砲があるだけ、それまでに秘匿された邦船遭難の例を語る船長の面持ちは不安と緊張に満ちていた。
 本船は途中、アモイとスワトウ、広東に寄港しただけでバンコクに到着。三菱商事の支店に赴くと陥落したばかりのラングーン行きを申し渡された。すでにバンコクから陸路、ラングーン入りしている三菱グループに合流すべく、座席を取り外した小さなAT輸送機で追及、ミンガラドン飛行場に着いて初めて見る占領地は勤務の合間に麻雀を楽しんでいる者もいるのどけさは余裕であろうか。支店の開設を急いだ。現地採用のクラークのほとんどがインド人である。もっぱら軍のご用を承る物資菟集積出に携わるうちに岩畔機関の要請を受け私が派遣されたのが奇しくご縁の始まりであった。
 徴用を受けたのは三井グループから中山氏(東京外語大インド語学科卒)と日綿グループから和田氏(戦前日綿カルカッタ支店経験者)の三人で、温厚な塚本中尉の配下に入った。この間落下傘でインドに送り込む諜者の訓練で二度、スンゲイパタニ(マレイ)、ビンジェイ(スマトラ)で境大尉、木田中尉、仲嶺軍曹と苦労をともにした。
 ミッドウエー開戦やガダルカナル撤退の悲報は詳しくは知らされず、海軍がアンダマン・ニコバル諸島を占領し、セイロンのツリン・コマリーに迫り、空母ジョーゼットシャー、巡洋艦ホーキンスも沈められた。またジャバ沖海戦で撃沈された米重巡洋艦オーガスタは上海浦江で見慣れていたから切実感があった。
 目の当たりにした日独海軍によるこの離れ業に直面して前途に光明を感じたわけであるが、千田長官はしからず。「マレー沖海戦で超弩級戦艦が飛行機で沈められることを教えてしまった」と前途の不安を漏らされていた。
 戦前カルカッタの映画館で上映の終わりに英国国歌の吹奏に併せてユニオン・ジャックを翻したロドネー、ネルソンの両巨艦が航進するシーンが映し出され、統治国の威容を見せ付けていたが、それを上回る超弩級戦艦、自慢のポンポン対空機関砲を備えたプリンス・オブ・ウエールズを空からの爆弾と魚雷だけで沈められたとあればなおさらである。
 三井物産の千田さんとボース
 千田さんは幼時は熊本育ち。名門・済々黌から東京高師附属中学を経て、日露戦争後にコマーシャリズム華やかなりしころに東京高商を卒業して三井物産に入社。若くしてシアトル支店勤務の後、ポーランド支店長からカルカッタ支店長に栄転。期するところあって気心のしれた英人ブローカーと組んで千田バーネット商会をカルカッタに設立。支店をラングーン、シンガポール、サイゴン、スマトラと東京に設け、貿易を主体にゴム園、製鉄所も経営する事業家として先覚者であったが、見込み取引の蹉跌から倒産の憂き目に遭った。
 さぞや無念と思われるのは長男に図南雄と名付けたことからもうかがえる。氏のインド観は多分にイギリス人を通してのものと思われるが、ことインドに関するかぎり氏をおいて他にない存在。かつてインド駐在武官の時代から旧知の杉山参謀総長に請われて南方総軍付司政長官に招聘されたのであろう。
 こんな感情が去来しながらいまや遅しと待機するほどに満々たるインド洋のかなたに忽然と姿を現した伊号潜水艦は航しながら近づき、鑑橋のハッチが開き、寺岡司令に誘導されて長身のボース氏が甲板に姿を現し、秘書のハッサン氏が続いた。両人は背広姿で髯鬚茫々、禿げ上がったボース氏の頭が印象的であった。母国を脱出、二年振りにアジアの土を踏んだのである。
 ボース氏と山本大佐の両人が駆け寄るように相擁して再会を喜び合うシーンが劇的であったが、私の最初の驚きは基地司令部の宿舎に入った時から早くも起きたのである。
 二カ月以上を費やし窮屈な潜水艦での航海、昼間潜航、夜間浮航の末にやっとたどり着いた地上で一休みもせずに、ボースと山本機関長とはドイツ語で、千田長官とは話は英語で延々二時間以上にも及んだ。ドアが開かれたままの食堂にはすでに午餐の用意が整い、食卓には色鮮やかなマンゴー、パパイヤ、マングスチンの類が山と盛られているのに、ボース氏はこれに一瞥も与えない。
 食卓に就いたボース氏は姿勢正しく静かに飲み物、食べ物を口に運んだ。居住性の悪いUボートから日本の潜水艦に移ってほっとしたことや、ゴム・ボートで移乗する時に見た鮫の話から、潜望鏡でとらえた敵大型油槽船への攻撃を控えたことなどを淡々と話した。
 食後にシャワーと午睡を取った後、足慣らしの散策に誘ったとき、ボース氏が途中でインド人とすれ違うのを極度に警戒した。搭乗者東京着の発表、宣言のタイミングを効果あらしめるためである。散歩中にちょっとした出来事があった。一見インドネシア人とおぼしき老婆から、たどたどしい日本語で声を掛けられた。身の上話を聞くと、この女性は、日露戦争当時、バルチック艦隊の動勢を探るべく、この地に派遣された三井物産シンガポール支店勤務員の馴染みのカラユキさんがこの地に取り残されて在住民と結婚して今日に至ったとのこと。物産のカルカッタ支店長であった千田さんとしては、これに似た手段を講じて当時の三井物産上海支店長の山本条太郎や森格のことなどを思い合わせて感慨も一入であったであろう。
 宿舎に戻り手兵さんの手で整髪、髭を剃り落としたボース氏は本来の颯爽、堂々たる恰幅に戻った。
 翌日、一行五人はMC型特別機で途中ペナンを経由、東京に向かった。防諜と一日も早い東京入りが望まれたからである。もっぱら航行の万全を期し、仏領ツーラン飛行場に寄り小憩。次は海南島の海軍飛行場に降り、基地宿舎で一泊、翌日マニラに飛び、さらに一泊した。ボース氏の疲労回復と占領地の模様を見て置いてもらう配慮からであった。
 マニラでは海軍武官府だけを訪れ岡司令に挨拶、ボース氏は日本海軍の協力を謝した後、車で海岸一帯の市中を一巡して兵たん旅館になっているマニラ・ホテルに入りくつろいだ。武官府の計らいで脱出時のままに遺されたいるマッカーサー司令官の居室を見せてもらった。それは執務室も兼ねる四階の全フロアを占めるもので、マントルピースの上にかの大山元帥の署名入り写真が置いてあった。察するにマッカーサー司令官の父君も軍人で、日露戦争中には従軍観戦武官であった史実に照らせば、マッカーサー将軍の心中もまたさぞや複雑だったろうと思われた。ルネタ公園を散策中、ホセ・リサールの記念碑の前に深々と低頭、瞑目していたボース氏の姿はいまも忘れられない。
 次の日は台湾に向かった。ここで台北ホテルに一泊し、最終コースは九州南端の陸軍飛行場と各駅停車並みの安全飛行を続け、本州の浜松飛行場に着いた時はすでに日没に近く、市中の陸軍指定旅館に入った。ボース氏、ハッサン氏も初めての純日本風旅館で総檜の風呂に入り、浴衣に丹前を羽織り、畳の座敷で二の善付きのご馳走は後にも先にもただ一度の体験である。傍らの脇息を女の枕と勘違いしたハッサン氏の早とちりを生半可な知識は危険とボースが笑いながらたしなめる場面もあった。日本に来たという安堵感であったであろう。
 明くる日はいよいよ東京入り。快晴の空を機は富士山の頂上を眺めて飛び、立川飛行場に安着。大本営参謀尾関中佐らに出迎えられ帝国ホテルに直行した。ボースは二階のスイートルームに、ハッサン氏と私が隣接の部屋、それに続いて機関長、千田長官となっていた。ボース氏が私までが匿名となっているのは発表になるまでの秘匿措置であった。
 ホテルで待機していたのは参謀本部の有末少将はじめ軍令部、外務省、新設の大東亜省、その他の当事者たちで、その中で戦前のカルカッタ時代に旧知の柿坪参事官、深井事務官(戦後それぞれ駐仏大使、駐パキスタン大使)にお会い出来たのは心強かった。
 たちまち日本に知れ渡ったボースの名
 ボース氏がこの時まで日本とほとんどつながりがなかったのは、反英闘争に明け暮れる氏にとり、日本をかつて攻守同盟まで結んだ英帝国主義の追随者と見なしていたからであろう。それはこれまでの会食の席でのスピーチにも、幼時期に日露戦争での日本の勝利に興奮したこと、岡倉天心の「東洋の目覚め」を読んで心打たれたり、ベンガル人の詩聖タゴールから聞かされることに触れる程度であったことからもうかがえたが、満州事変後の日本には関心を深め、インド国民会議派の議長時代にカルカッタ市長のザカリヤ氏やマドラス州宣伝大臣らを中国、日本に派遣して情勢調査に当たらせたことは私自身がボース氏から直接聞いていた。
 そんなボース氏に日本を知ってもらうべく、東京着後の日程は盛り沢山なものであった。ボース氏は終始、熱心に理解吸収に努め、疲労の様子も見せぬばかりか、質問もまた手厳しく、歌舞伎では筋の説明で私のほうが突っ込まれ恥をかく始末であった。
 ラス・ベハリ・ボース氏との初会見も早々に実現した。初対面ながら志を同じうする両人が同郷のベンガル語で語り合う情景は傍目にも涙ぐましいものがあった。この間におけるボース氏が終始謙虚の姿勢を崩さなかったことも忘れられない。この晩、両ボース氏をお招きする有末参謀の宴席が築地の「新喜楽」で設けられ、和やかな一夕となった。日本髪の芸者も侍る賑やかな盛宴で、ボース氏がベンガリ語で語るのを隣のラス・ベハリ・ボース氏が達者な日本語で通訳する珍しい場面も見られた。
 結核の既往症を持つボース氏の健康が気遣われたが、慣れない和食も酒も啖々と口に運び、芸妓の仕舞や気さくな有末少将の隠し芸に微笑んで眺め、注がれた酒盃は必ず干して聊も姿勢を崩さないボース氏であった。
 東条首相との会見が遅れたのは、首相がそれまでインド独立連盟のいざこざや、ボース氏が左翼思想の持ち主ではとの疑念からと言われていたが、初対面でボース氏の態度、風貌、弁舌に魅せられたらしく、会見が上首尾であったことは通訳の大役を果たされた千田長官直々の話である。ボース氏の東京出現が公表され、帝国議会を千田長官と私がお伴をして傍観した折りにアンダマン・ニコバル群島譲渡の用意があることに触れたことや、公約通り仮政府樹立の直後に昭南を訪れ、クリケット広場でINA閲兵式に臨んだことで東条首相を信頼、高く評価していたようである。面と向かってイエス、ノーを分かり合えるのは首相しかなかったであろうし、一方で参謀総長や軍令部長との会見に物足りなさを感じたのも想像できることである。
 ボース氏東京入りのニュースがラジオ、新聞、雑誌で一斉に報道されると内外の記者はもとより枢軸国の在日使臣らが続々ボース氏を訪れた。繁忙を極めたボース氏はこれを精力的にさばき、インドのボースの名は覚えやすさも手伝ってたちまち老若男女に知れ渡った。
 シンガポールに自由インド仮政府樹立
 一カ月あまりの東京滞在の後、昭南入りとなって、これにラス・ベハリ・ボースが加わり、途中の着陸を極度に省いて昭南のガラン飛行場に着くと光機関のほか、南方総軍、インド独立連盟、INA幹部の出迎えを受け、両ボース氏はたちまち花束、レイガーラントに埋もれてタラップを降り、かねて用意されていた郊外カトンの公邸に入った。この二階建ての宏壮な邸宅は後庭が入り江に面した二〇〇〇坪の敷地があり、母屋のほかにサーバント・クオーター、車庫、門衛の舎屋も整っていて、ここが公邸とインド独立連盟本部(まもなく仮政府庁舎)を兼ねることになる。裏のベランダからは停泊中の重巡洋艦「足利」の雄姿も望見された。ここには侍医兼副官のラジユー軍医中佐、副官ラワット大尉のほかに家扶としてベンガルのシュレン・ボース氏が住み込み、私にも母屋一階の一隅にバスルーム付個室があてがわれた。身分は光機関連絡官(liason officer)となっていた。
 時を移さず、ラス・ベハリ・ボース総裁の招集で開催された独立連盟をはじめとするキャセイ劇場を借りきっての大集会では、こんなにもいたのかと驚くほどのインド人で埋まり、演壇に立ったベハリ・ボース氏は老齢と病躯による総裁としての不行き届きを詫びるとともにこのたびチャンドラ・ボース氏を迎えるまでの苦心と経緯に触れた。この後、インド独立連盟総裁の座をチャンドラ・ボースに譲ることを提案、「みなさんご異存は」との問いかけに満場の拍手がこれに応えた。壇上に導かれたチャンドラ・ボース氏の挨拶と宣誓のスピーチに歓呼の声、拍手の音がしばし鳴りやまぬ雰囲気のうちにみごとな総裁禅譲がなされたわけである。
 ベハリ・ボース氏は独立連盟最高顧問に推され、しばらく昭南に逗留した。
 矢継ぎ早に開催された二度目の大集会で早くも自由インド仮政府樹立とINAを傘下に収める宣言が行われて、東亜在住のインド人の気勢が最高潮に達したものこの時期であった。「ネタジ」という称号を耳にしたものこの時からである。極めて限られた時代の人物に用いられる表現でマハトマ(ガンディー)、ヒューラー(ヒットラー)、デューセ(ムッソリーニ)、ゼネラル・シモ(蒋介石)の類であろうか。ネーム・バリューのすごさに驚かされた。
 ネタジを首班に戴く仮政府の各大臣、幕僚が選ばれた。INAの総司令官は軍人でないネタジの兼務、仮政府の国旗は本国の三色旗中央部の糸車に代えて襲いかかる猛虎の図柄。東条首相から寄贈されたネタジ専用機の機首にもこの図柄が描かれ、戦後に出版されたネタジ伝記もの「Rampant Tiger」の題名の刊行本のカバーにもこの絵があった。
 公邸でのネタジの起居は几帳面そのもので、朝食こそまれに自室に運ばせることがあっても昼食も晩餐も属官たちと一緒の食卓にきちんとした服装で臨んだ。食事時が唯一ネタジがくつろげる時で、属官たちは緊張気味にネタジの高説を拝聴するといった風であった。
 私にも語りかけ、時々冗談まじりにからかわれることがあって、三度に一度ぐらい私がやり返すと呵々大笑するネタジに一瞬遅れてほかの連中も笑い出す場面もあった。相好を崩す時に見える氏の特徴である門歯の隙間が愛嬌的で親しみを感じさせるのであった。
 ネタジは世の秀才型にありがちな宵っ張りの朝寝坊の例外ではなく、事と次第では徹夜も辞さぬ頑張り屋で、常住坐臥、思索に耽るタイプ、格調高い英語での会話、演説は嫌みのないインド人流のイントネーションで、その体躯、容貌と相俟って迫力に満ち好感が持てた、祖父の代からのインド風の語調。音吐朗々、切々と聴衆に迫り愬(うった)えて已まぬものがあった。私が知るかぎり、大正、昭和にかけての永井柳太郎と中野正剛の中間を行くものと思われた。否、それ以上のものであろう。
 公邸には日本側要人の来訪者も少なくない中には、どうかと思われる人物も混じり、観察眼がまた鋭く、折り目正しいネタジは会見が済むと辞去しる客人を必ず玄関まで見送るのが常であった。出ない時は先方の地位、身分に関係なく、私だけに見送らせることから、その辺の眼力の鋭さには恐れ入ったものである。ある時のことである。たまたま公館に私がかつて在営中の元中隊長の来訪を受けた。彼は「蒋介石のおかげで大佐になったよ」と挨拶されたほど気さくな人柄で、積もる話のあと、ネタジに伺いをたてると「お逢いしよう」ということになった。応接間であらためて茶菓を運ばせての面接時間をつくっていただいたがかりか、署名入りのポートレート写真を贈り、ご自身も玄関まで見送るという丁重さに人情細やかなネタジの一面があった。
 仮政府としての権威、対面保持を期するネタジの挙措行動にはいささかの落ち度もない。最初に起きたもめ事が日本軍将兵との敬礼事件だった。総軍、INA双方の指示不徹底から起きたトラブルで、これにはネタジも頭を悩ませた。INAに指示したのは了解通りに行動し、徒な抵抗を慎み「毅然(きぜん)とFace Majorせよ」と示達したのである。千田長官も「聞いたことがない英語」といっておられたが、戦後に来日したネタジの甥、アミヤ・ボース氏にこの話をすると「叔父は造語の天才でしたから」と聞かされ納得がいったわけである。不可抗力というフランス語から英語になったのを動詞化するあたり、さすがはネタジである。時事新報の老記者で著述家でもある伊藤正篤氏の文面にもこれと似た辞書にない熟語が見られ、意味が通じしかも適切であったことを思うとこの種の新語が生まれてもおかしくない気がする。この心構えがINAに徹底して、INAが毅然たる態度を崩さず武装解除に応じたことに思い到らされるのである。
 二回目の訪日は大東亜会議に列席するためでオブザーバーの資格で、ボンスレー幕僚長、チャタジ内務大臣、サハイ無任所大臣、ラジユー軍医中佐らが随行し、光機関から山本機関長、千田長官、香川参謀と私が同行した。
 会議には満州国(張総理)、南京政府(汪精衛総裁)、フィリピン(ラウレル大統領)、タイ国(ワイワン殿下)、ビルマ(バーモ大統領)の各国代表に伍して自由インド仮政府はオブザーバーの立場ながら注目を集めたのはネタジの存在であり、各国代表のしんがりを受けて行われたネタジの第一次世界大戦の講話会議を引用してのスピーチが高く評価されている。
 会議も終わり、帰途は汪精衛首班の招きを受けて南京を訪れた。中国革命の父孫文の中山陵に詣で、満漢全席の円卓での両首班の心中にはかつての同志とたもとを分かった立場からもお互いに相通ずるものがあったであろう。ネタジの英語スピーチが華訳では半分満たぬ時間で済むのは昭南で聞いていたタミール語訳よりもさらに短かった。
 翌日、南京を辞去、上海では陳公博市長の公賓としてキャセイ・ホテルに一泊した。ネタジにキニーネの錠剤の購入方を依頼され、三菱商事の友人を煩わしてなんとか入手できた。インフレの上海では高い買い物になったが、こんな子細なとことにも部下の健康を案ずるネタジの心情がうかがえたのである。ネタジに感謝されたのは言うまでもない。
 フィリピンを訪れたのもラウレル大統領の招きによるもので、クラーク・フィールド飛行場からマラカニアン・パレスに直行、小憩の後の歓迎晩餐会は双方が通訳抜きで語り合えるのと、ラウレル大統領の明るい性格の手伝い和気藹々たる雰囲気で深更に及び、スペイン領時代からの特産、上等の葉巻で紫煙を燻らすネタジの珍しい姿も見られた。パレスで一夜を明かした一行はさすがに起床が遅く、私一人が食堂に入ると中には大統領一人。手招きされ慇懃にあいさつ申し上げると「みなさん、お疲れのようだね」といいながらご自身でココアを注いで下さって大恐縮した。屈託のない人物である。
 たちまち売り切れた仮政府国歌
 昭南に戻ってからもネタジは身辺多忙を極め、仮政府の国歌が制定されたのもこの頃である。このナショナル・アンサムは詩聖タゴールの作詞になる歌詞歌曲を進軍歌調に直されたもので、光機関が斡旋して軟盤に吹き込んだものをナイル氏が宰領して帝蓄でレコードにして大量に後送され、昭南のほかマレー各地でたちまち売り切れインド人が愛唱するところとなった。
 殉難者(マーターズ)デーが設けられ、その日はインド人は仕事を休んで集まり、慰霊の祭典を営み、ネタジの講演の後、素人演劇のジャンシー王妃やアムリッツァーの惨劇のクライマックスに場面に涙するネタジの姿が見られた。
 ラニ・オブ・ジャンシー部隊の創設はいささか意表外のことながら、規模は小さくとも格好が出来上がってその閲兵式を指揮して総司令官に敬礼を捧げる美貌の隊長ラクシュミ大尉の眼が傍観するわれわれ光機関員たちには流し目のように見え、独身同士とて愛の芽生えをささやきあったのも、しょせん取り越し苦労であった。ラクシュミ女史は後にサイガル中佐と結ばれた。
 インパール作戦に出陣したこの婦人部隊が全軍の後退に伴うシッタン河渡河の際に、ネタジが方面軍司令部、光機関長との同行を頑強に拒み、婦人部隊の渡河完了を見届けるまで、敵弾飛来する中を動かなかったことも戦場美談として伝えられた。
 ネタジが滞独中、オーストリア人女性と結婚していた事実はだれ一人として知らなかったし知ろうともしなかった。三度目の訪日のときであったが、私が「戦争が長引き、一時休戦(負けるとは言えず)となっても閣下の引き渡しに応ずることは出来ないので、そうなれば身の回りのお世話をしお慰め出来る女性も必要でしょう。いま日本には容姿教養ともに優れた婦人も余り気味です」と話すと、破顔一笑したネタジはラス・ベハリ・ボース氏のことがひらめいたのか「だれかに言われたのか」と反問された。「私なりの思い付きから」と答えると「そんなことは考えてもいない。ただ自分以上に情熱で叱咤、鞭撻してくれる女性がおれば別。年齢、美醜、人種の如何と問わぬ」と応じながら、「イタリーの革命家ガリバルジーは夫人に尻をたたかれながらあれだけの仕事が出来た」と語るのであった。
 こんな非礼が許されるのか
 自由インド仮政府樹立後、ネタジは大臣、幕僚を従えてタイ国を公式訪問した。国際夜行列車でバンコク入りしたのが土曜日の朝、ラトナ・コーチン・ホテルに入り、日本大使館の浅田参事官から手渡された日程表を一瞥したネタジはたちまち顔色を変え「承服できぬ」と突き返した。最初の表敬訪問先が中村駐屯軍司令官となっているのを見て「こんな非礼が許されるか」と指摘した。参事官が「ピプン首相は日曜日は休息日に当て、だれにも会わないので」と釈明しても「それならば日をずらす」と言われ、急きょ日程を組み直すことになるトラブルがあった。にもかかわらず、その後会った坪上大使とは慇懃丁重の態度に一変するネタジである。馬が合うというか坪上大使とは気心があったようである。
 日本側の斡旋で仮政府の承認が次々に得られた中でタイ国だけが未承認なのをネタジは執拗に迫った。適々、バーモ首班の名が出ると「ビルマはインドから分離される以前はインドの一州にすぎなかった。バーモ氏はビルマ会議派の支部議長、自分は全インドの議長だった」と嘯(うそぶ)かれたと千田長官から聞いている。なおこれにつながる後日談がある。戦後にタイ国のピプン首相が剃髪して托鉢僧の姿でカルカッタに逗留中、同地で会社を経営していた国塚一乗氏(陸軍中尉、光機関軍事班、INA担当)に打ち明けられたのは、ピプン首相はインド仮政府承認の問題を閣議にかけたが、賛否両論でまとまらず、首相一任ということになったため、自分はこれを承認した。この時、最も強硬に反対した外相が罷免されたが、この外相は日本の敗北が決定的になった時点で苦肉の策として駐米大使に起用したそうである。英仏の植民地に挟まれた緩衝国として独立を保ち続けた弱小国でも、首相在任の世界記録保持者のピプン氏もまた並みの宰相ではない。
 ネタジを怒らせたケースはこの他にもある。大東亜会議から昭南に戻った早々、光機関から南方総軍司令官への挨拶方を伝えられると、ネタジは一言のもとにこれをはねつけ、「軍司令官が迎えに来て居られたか」と反問した。「参謀長が飛行場に見えていた」と答えると「それなら幕僚長を差し向ける」と言って肯んじない。もめた末、晩餐に招かれていることを話すとネタジも折れて、車を連ねて寺内元帥の官邸に赴いた。機関側留守役の手落ちと言えなくもないが、軍政が敷かれていた占領地だけにデリケートな問題である。寺内元帥は千田長官と少年時代、東京の麻布中学で一クラス違いの旧知の間柄である。総司令官官邸に付くと玄関まで出迎えの元帥と挨拶を交わし、同僚の幕僚を交えて和やかな晩餐の席となった。
 信任状を持たずに赴任した蜂谷公使の引見を拒んでいたネタジもそれが届くと、参事官が東京駐在中に公式通訳を務めた柿坪正義(ケンブリッジ大の後輩)でもあり、親密に接触を保ったのであった。
 機首に色鮮やかなRampant Tiger
 一九四四年の晩秋、ネタジ三回目の訪日は東条首相退陣の後の小磯内閣の時である。山本大佐に代わって光機関機関長になった磯田中将、香川参謀と私が同行した。搭乗機は東条首相から贈られたMC12人乗り輸送機で機首に色鮮やかなベンガル・タイガーが描かれていた。
 帝国ホテルに投宿して、約三週間の滞在となった。物資の欠乏がホテルの食事にもみられたので、せめてインド人の主食である牛酪製品だけでもと親類の明治製菓の担当技師に相談の結果、「やみ売りは出来ぬが、VIPへの寄贈であれば」ということで、カートン・ボックスに一杯詰まった現品が届けられた。ネタジ自身でこれを受け取り、受領証を兼ねた礼状を渡して、現品はしばらく部屋の片隅に置かれたままになっていた。およそ二十日ほど経ってから中身を知る随員から目配せされ、私からネタジに申し上げると「忘れていた。なぜ早く言わなかった」と詰められ、至急陸軍士官学校に届けるように頼まれた。心打たれた随員たちの顔がいまも瞼に浮かんでくる。ネタジは随員とともに東京着後、早々に陸軍士官学校を訪れ、派遣したインド人留学生たちに会っている。先年、松島和子女史の招待で来日したダーサン氏ほか数人の元留学生の歓迎会に招かれ、この時のことを披露すると「憶えています。忘れるものですか」と泣かんばかりにネタジ追慕の念を新たにしたのである。
 滞京中に千田長官が長逝され、葬儀が築地本願寺で営まれた。本堂は陸海軍の将軍、政府高官、政界の要人で埋まり、数々の弔辞の中で、切々と語りかけるネタジの弔辞は異色圧巻であった。視野が広かった千田長官はインド独立の喜びに遭うことなくこの世を去った。
 帰途は上海に立ち寄る都合で、福岡に一泊することになった。その晩に西部軍司令官に料亭で和食の饗応を受けた後、珍しい場面があった。宴席でしたたか泥酔した博多芸妓が引き上げるネタジの車に足袋跣で飛び込んできた。宿で改めて飲み直す格好になり、ネタジも悪い気はしなかったと見え、差される酒杯を悉く飲み干す酒豪振り。くだを巻く芸者の通訳に辟易していると、うるさがる様子もないネタジに「まともに通訳しているの」と言われる始末である。後で女将から「彼女は博多一の名妓で旦那であった高貴の将軍が戦死して悶々の日々を送っている」と聞き、己の無粋さを反省しなくもなかった。
 これより先の一九四四年一月末、情勢に応じて仮政府と光機関は本拠をラングーンに移した。INAの主力もビルマに移動し、光機関長は磯田中将に代わって、昭南は独立連盟マレイ支部、機関も昭南支部となり、私は支部の政務班勤務となり、ビルマでのネタジとの接触はない。この間にネタジ母堂の訃報を知り、私個人として弔電を送るとネタジから丁重な礼状が届き、ここにも几帳面で心ゆかしいネタジの姿があった。
 インパール作戦が失敗に帰し、仮政府、INAがバンコクに後退した後、適々、公邸での側近たちと雑談の席で「敗将ウエーベルをインド総督、オーチンレックを軍司令官にするなどイギリスも落ちぶれたものだ。田中、河辺両将を大将に昇進させる日本陸軍も同然だ」と吐き棄てるように語ったネタジの見識はさすがであった。正味六カ月余をお側に仕えたネタジにはおよそ人間としての欠点が見出せなかった。強いて求めれば、運動神経が鈍かった。テニスの相手をして分かったことだが、それも天性の資質に加え、たゆまぬ勉学と模索に明け暮れ、哲人らしさを思わせるのである。
 一介の日本人の過ぎない私が、超人的なネタジの偉大さを痛感させられたのは、日本の降服が決定的になってからである。一九四五年八月十一日の午前、駐タイ坪上大使からの極秘親展書簡を、折からイポー地区で演習統監中のネタジに手渡すよう命ぜられた。適々封筒糊が剥がれていたので中を見ると「日本政府がポツダム宣言受諾を申し入れたことをお知らせする」という内容のもので、Prerogative(天皇の大権)なる生涯忘れ得ない難しい単語もこの時に覚えた。「重要な親展書です」とネタジに手渡すと「またアトミック・ボンブか」と呟きながら開封した。目を通したネタジは静かに封筒に収め、指揮官には演習継続を命じ直ちに昭南に引き返した。事態の急変は短波放送ですでに承知のように見受けられた。
 公邸に戻るとネタジは直ちに閣議を召集して諸々の処置を講じた。最初に頼まれたことはチャタジー大臣に同行して、小磯内閣の時に取り決めた日本からの借款の残額(一億円のうち八千万円余)の全額引き出しを手伝ってほしいということであった。やがて解体を余儀なくされる連盟の職員への退職金に充てるもので、南方開発銀行で受け取り、一部はネタジの指示通り、日本も含めた東亜各地の仮政府代表者への電信送金を済ませて、残額はキャッシュ(軍票)で大臣が持ち帰った。窓口担当の松平氏(松平駐英大使の長男、後の東京銀行副頭取)が怪訝そうに「機動部隊でも現れましたか」と問いかけたのは状況をすでにご存じであったかどうか。
 次に私一人に頼まれたのは、すでに解散していたジャンシー婦人部隊の兵士二人がバンコクの親元に帰るのを停車場でその乗車を見届けるよう念を押されたことである。帰って無事発車を報告すると心底から感謝するネタジであった。二人だけになったところで「降服には何か裏があるのでは」と尋ねると「降服は分かっている。日本軍は天皇の命令に従えばよい。天皇制は維持されるべきだ。皇太子が若すぎるなら摂政を置けばよい。日本人は優れた民族、再興を信じている。インドも必ず独立する」と私を慰めたのである。これが破局に当面した人間であろうか。
 八月十五日早朝、ネタジと側近は陸重爆機で機関本部があるバンコクに向かうことになった。随行する私も軍刀を外した輜(し)重兵少尉の軍服に着替え、亡父(軍人)の遺品である拳銃も携行した。バンコクに近づき機が急回転したので敵機の追尾かと観念したが、ネタジは平然としている。飛行場を通り過ぎ引き返したのである。飛行場に出迎えの機関長、香川参謀に玉音放送があったことを聞かされた。南方総軍司令部との連絡のためさらにサイゴンに赴くことになり、機関本部はネタジとお別れの晩餐の席を設け、この地で一夜を過ごした。
 明けて十六日、ハビブル・ラーマン中佐、デナム・ダス氏らが一行に加わり、サイゴン着。宿舎に入り総軍参謀から伝えられたのは「四手井中将を満州に送る特別機が明朝出発するのでこれに同乗していただくことになるが、座席は二人分しかない」とのことである。(陸軍切ってのソ連通である同中将を関東軍の降服に立ち会わすためと聞く)
 この晩、ネタジは「自分はソ連に捕まり殺されるかもしれぬが、これからイギリスに盾突ける国はソ連しかない」と語る一方。随員たちは水陸両路からでもと追及を誓う有様は、何かキリスト最後の晩餐を思わせるものがあった。同行出来ぬ随員たちに路銀として金塊が渡されたと聞いたが、これは南方総軍司令部の配慮によるもので相当な量であったらしい。
 翌十七日朝、関係者全員は飛行場にネタジとハビブル・ラーマン中佐を見送った。これがネタジとの永別となった。陸重爆機には四手井中将のほかにも数名の将校が乗り込んだので、聞いてみると「転任命令を受け、一カ月も待機中」とか、何とも解せない卑怯な行為としか思えなかった。
 機影が視界を去るまでわれわれは不動の姿勢を崩さず目送した後にまた私を感動させる場面が起こるのである。それは別の滑走路に停止していた輸送機の周辺に軍人の一群が見られ、聞くと南方総軍慰撫のため御差遣の勅使、北白川宮殿下のご搭乗機がまもなく離陸するとのことである。するとキャニー大佐が一同を整列させ、再び挙手目送の礼を払ってくれるではないか。
 サイゴンの宿舎に戻り、私が改めて「パートナーが降服して申し訳ない」と詫びると「とんでもない。われわれは感謝こそすれ、寸毫も恨むなんて」と肩を抱くようにして異口同音に慰められる始末。とかく打算的なインド人をこれまで導いてきたネタジの感化力をいまさらのように痛感させられたのである。
 ネタジ逝去の悲報を受けたのはその翌日である。総軍司令部と打ち合わせ、台北に急行するアイヤー氏を飛行場に見送った後はこれという任務もなく、機関からの司令もないまま、御役御免の面持ちで三菱商事サイゴン支店に身を寄せると、軍の要請で支店から供出する通訳要員に加えられ、市中の宿舎に寝泊まりして英軍による武装解除に立ち会う惨めともいえる役目に回された。
 比較的、行動も自由であったので連盟支部長に会うことも出来たが、彼が注意してくれたことは「気の弱い者もいて、英軍の追及にすべてを話さぬとも限らないから目立たぬよう行動する方がいい」とどこまでも親切にかばってくれたのである。軍通訳の仕事も済み、通訳班は軍の収容所に入れられた。幾ばくもなく帰還第一船で帰国が叶い、民間人より早くサイゴンを離れることが出来た。それも艦齢も若い練習艦「鹿島」。主砲も取り外され収容力があり、速力もリバティー船よりも速かった。
 広島県の大竹に上陸して東京の留守宅が郊外に疎開しているのを知った。引揚列車は原爆投下の広島駅には停車せず、すし詰めの状態で東京にたどり着き家族と再会した。仏壇を見て老母と末弟の戦死を知り暗然たる思いであった。母は生還した二週間前、弟は約一年前に海軍特攻隊で沖縄海上で戦死していた。
 近くの荻窪に住んでいたA・M・サハイ氏夫人はネタジの最初の訪日の時に会っていた。訪問すると、日本でも長く、日本語も達者な彼女から当時の様子を詳しく聞くことができた。彼女はベンガル州生まれ。反英運動の大先輩であるC・R・ダスの姪に当たり、ご亭主勝りの愛国者でこよなくネタジを崇敬していた。平屋建ての日本住宅に一時ネタジの遺骨や陸軍士官学校に留学していたインド人学生を預かった女丈夫。私にも極めて好意的で本国に引き揚げ後、しばらく借家住まいをさせてもらい助かったことがある。
 ラム・ムルティ連盟支部長(仮政府駐日公使兼務)を訪ねた折り、居合わせた英陸軍のフィゲス中佐に引き合わされた。いろいろ質問を受けたものの、その後に呼び出しがなかったのは聡明なムルティ氏がしかるべく取り繕ってくれたのではあるまいか。ムルティ氏はカーキ色、ロング・コートの軍属風の姿であった。日ならず、ムルティ氏に伴われ杉並区堀之内の蓮光寺に安置されたネタジの遺骨を詣でた。望月住職にもお目にかかりごあいさつ申し上げた。ムルティ氏は盛花、チーズ、バター、缶詰など盛り沢山にお供えして私もそのお裾分けにあやかった。
 占領軍の財閥解体に先立ち、三菱商事と三井物産が取り潰しの憂き目に遭ったころ、いち早くバイヤーとして来日したのがインド人商人で、ボンベイからベタイ商会、マドラスからジャピー商会、シンガポールからバジャジ商会などはいずれも親日家であった。石川義吉氏や私の戦時中のことを知り、取引はもちろんのこといろいろな面で助けてもらった。インド独立の第一報を知ったのもジャピー氏への電報からであった。一九四九年には日本民間人の用務上の海外渡航が許されるようになり、インド、パキスタンに出張することができた。優先外資によるもので旅券はSCAP発給、搭乗機もフィリピン航空の直行便であった。
 十二年ぶりに見るカルカッタは戦前とそれほど違っていない感じを受け、早々に感激を味わった。かつて在勤当時のクラークの連絡でネタジの甥御さん(末弟シュレシュ・ボース氏の長男)の来訪を受け、映画館に案内された。「パイレ・アドミ」(先覚者)という題名のベンガル語のトーキーの筋はネタジ率いるINAの活動を盛り込んだ若い男女の恋愛物。当時のネタジの実写がスクリーンに映し出されると興奮した観衆は床を踏み鳴らして歓呼叫喚するのである。INA物とされるこの種の映画はインド各地のスタジオで競って制作され、皆大入り満員、ロング・ラン上映であったとのこと。戦争中のことは極力秘匿にこころがけたものの、日本人と見ると決まってネタジ存否のことを執拗に聞かれるので「must have died」と答えることにした。訪れたボンベイ、ニューデリー、カラチでも同様であった。一九五四年に三菱商事の再起が叶い、主要海外市場に拠点を設置すべく私は先陣を受けてインドへ出向くことになり本拠地をカルカッタに決めたのも私には当然の成り行きであったかもしれない。
 もっともそれまでに日商、住友、江商、東綿、日綿各社は支店、駐在員を置いていたが、態勢整備はスムーズに運んだ。合併前に石川義吉氏が出張先のアデンからボンベイに移駐してきていたことや戦前の同僚大脇氏がボンベイに駐在中で、光機関の国塚一乗氏が地元出資者を得て日印商事の代表取締役であったことで万事好都合に運べた。光機関アキャブ支部で塚本中尉と苦労をともにした萱葺信正氏(神戸針金社員)が取引先との苦情処理のためボンベイ滞在中であったのを三菱商事に迎え入れることが出来たのも大きなプラスになった。氏は参謀本部の委託学生としてカイロ大学に留学し、英語、アラビア語、インド語に長じた有能の仁。三菱商事取締役、中近東監督として活躍中に不慮の事故で亡くなられたのが惜しまれる。この他、独立連盟のカクバイ・シェティ氏、ネタジ公邸の家扶のシュレン・ボース氏、陸士留学生のチャタジー君らにそれぞれボンベイ、カルカッタ支店に次々参加してもらえたのも大きな手助けとなった。ボンスレー、シャヌワーズの両将がネタジへの忠誠断ち難く、首都に留まってそれぞれ副大臣の顕職に就き、何くれとなく私どもを助けていただいた。ネタジ、光機関につながるご縁のたまものといまなお感謝の念を禁じ得ない。
 六年余にわたった在勤中、要人に会う度に「ネタジの日本人秘書」と言われるのには閉口した。私はその都度、これを否定して「とんでもない。あんな偉い方の秘書なんて務まりますか。単なるボトル・ウオッシャーに過ぎません」と答えることにした。ボトル・ウオッシャーとは階級意識の強い英印軍に存在する当番兵の助手の呼称で国塚氏から教わった。横綱のふんどし担ぎのさらに下の「越中ふんどし洗いひと」とでもいいたいところだった。
 インパール作戦をネタジの慫慂(しょうよう)に結びつける説があるが、私はそう思いたくない。前々からネタジが「日本軍がビルマに進攻したときになぜあのまま追従しなかったのか」と口惜しがって、「ガンジーのクイット・インディア・ディマンドも、それを予想しての彼一流の布石であったのに」と幕僚たちに語っていた。また光機関の粟田義典氏がビルマのタウンジで牟田口師団長と面接した折り、粟田氏の質問に「インド進攻など容易に考えてもらっては困る。ビルマまでは騎虎の勢いで行けたが相手はいま身構えている。インドに攻め入るには海陸両面からするものでなければ勝ち目はない。イージー・ゴーイングな後方参謀の具申に判を押した植田関東軍司令官のノモンハンの轍は踏めない」と戒められた。起死回生の一発長打を期待した東条首相兼参謀総長と無傷の南方総軍と、長期の駐屯に脾肉の嘆を喞(かこ)った牟田口将軍の心境が分かる気がする。河辺方面軍司令官も片倉参謀もネタジの慰霊祭には欠かさず顔を出していたばかりでなく、チャンドラ・ボース・アカデミーの東京代表にもなっている。
 私がつくづく感じ思うのはネタジのような人物は社会秩序が整った先進国には求め得べくもなく、それも裕福な家庭に生まれ育ち、凛性の頭脳に優れ、最高学府までの教育を畢(お)え、定職に就くこともなく、行往座臥、一途な探求と思索に明け暮れることから現れるのではということである。度重なる入獄もかえって勉強の助けになったのではないか。一世紀に一人出るか出ないかの智、仁、勇兼備の英傑であった。
 ネタジと接触した日本人のほとんどが氏を高く評価し、よしそれが首相、大臣、大使、将軍クラスの人々であれ、当人たちがそこまでの人物でなければ誉めたことにならない。生い立ちと学究、処世に似通ったものがある碩学、安岡正篤先生に会っておいてもらいたかったと思ったのは戦後のことである。先生は第二次大戦勃発直後にヨーロッパに旅し、ヒットラー、ムッソリーニを乱世の英雄と決めつけ、畳の上では死ねないと著書の中にほのめかしている。
 インドの独立が意外に速く実現したのも、所詮はインド人頭脳が然らしめたといえなくもないのである。イギリスはインド統治の方策上、理工系統の教育を抑えていたため法学、医科にしか立身出世の途がないと聞いていたのが、如実に具現されたのが東京裁判のパール判事であり、ニューデリーの軍事裁判に結びつくのである。
 レッド・フォート軍事裁判の様子を逐一伝えてくれるラマ・ムルティ氏の表情は明るく、判決が下り法廷を出た三被告があらかじめ用意された満艦飾の巨象の背に乗せられ、狂喜乱舞する大群衆を分けてデリーの大通りを練り歩いたことを聞き、手を取り合って喜び合ったものである。デサイやネールが古い法衣を付けて闘い抜いた勝利には、元首を戴く仮政府を樹立し領土を保有し、数カ国の承認を取り、宣戦布告したネタジの措置が大きく物を言ったわけである。
 ネタジの悲業の死は洵(まこと)に無念、哀悼に堪えぬも、神格化されて末永く独立インドの国民精神発揚の支えとなることを祈っている私である。宜(むべ)なる哉、昨年鋳造された一ルピー記念銀貨の表にネタジの像が刻んであるのを見て意を強くした。この上は一日も早く遺骨が故国に戻り、聖なるガンジスに流されるのを切望する傍ら、その一部と松島和子刀自の篤志で作られた今世紀の偉人ネタジの胸像が末永く蓮光寺境内に安置されるのを願って已まない。
(一九九五年五月三十一日)


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