一九四五年十一月、私は沢田廉三、松本俊一の各氏とINA軍事裁判の証人としてニューデリーに召喚された。被告はシャヌワーズ、ディロン、サイガルの三幹部であるが、実質的にはINA独立運動の究明であった。
前国民会議議長デサイ氏を首席弁護人とし、ネール、ジンナーの両巨頭までが、ネタジとの政敵関係を離れての特別弁護である。被告人も抑留被疑者たちもいずれも烈々たるインド独立解放の志士である。インド国民は連日独立解放の歌を連呼し、全インド国民の独立解放への悲願は日増しにかきたてられた。
一九四三年七月、チャンドラ・ボース氏は宿願ようやく成り、インド解放準備のためラングーンに飛来した。当時、河辺正三将軍の幕僚であった私は、その受け入れ体勢の確立に、北部光機関ラングーン支部長等と協力して準備に忙殺されたが、七月末日ボース氏は河辺将軍と会見することとなった。
氏はまず自らの革命運動の生涯の遍歴を述べ、インド独立は、結局、武力闘争なくしては達成し得ざること、右信念からガンジー、ネールと決別せる経緯を語り、今やインド解放軍の総師として進軍する決意を披瀝して、日本軍の協力を要請した。その双眸にひらめく牢固たる決心、全身に漲る熱情は、河辺将軍以下を深く感動せしめ、欣然協力支援を約した。
同年秋、仮政府をラングーンに樹立して、反英独立の旗幟を鮮明にし、日本軍とはあくまで協同作戦の立場をとり、連合参謀部の設置、友邦軍としての相互敬礼の交換、自主的放送実施等、努めて自主的措置が講ぜられた。烈々たる気魄、滴る愛情は、たちまちにしてINA将兵の士心を獲得し、万難を排して祖国解放への進撃を始めた。私も裁判証言において正義と信義に立脚し、何らの躊躇なく日本軍の協力支援の立場を陳述しえた次第であった。
レッド・フォート夜半の喊声は潮のごとくニューデリーヘと進む。「ジャイ・ヒンド」のネタジの雄叫びは一波万波全インドヘ拡がって行った。レッドフォートの暁は、インドの黎明を迎えた。全身革命の闘魂に満ちた颯爽たるネタジの英姿を眼前に彷彿として、私の感懐はいまなお限りなく続くのである。
(一九六〇年五月七日スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー発行『ネタジ』)
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