二、インド国民会議派の若き闘士
マハトマ・ガンジーとC・R・ダス
一九二一年七月二十一日、ボンベイに船が着くとボースはすぐさまその足でガンジーのアシュラム(道場)を訪間した。手織木綿の民族衣装の人々の中に洋服姿の自分が恥ずかしかったが、ボースは一年以内にインド自治を回復できるというガンジーの考えの根拠をたずねた。ガンジーは、
一、ここ数年間はイギリス製綿布のボイコット、国産綿布愛用運動に力を注ぐ
二、その運動が成功すれば、インド政庁は国民会議派弾圧を強化する
三、その時こそ法令に対する不服従運動と牢獄への行進が始められ、牢獄が満杯になれば、運動の最終段階である税金不納運動の時が来る
という三つのステップを語った。
註 ガンジー、M・K・「インド独立の父」と呼ばれる独立運動の指導者・政治家。「マハトマ(偉大なる魂)と敬称されたが、独立直後、狂信的ヒンドゥー教徒に暗殺される(一八六九~一九四八)
ボースが「もしイギリス製綿布のボイコット運動でランカシャーに混乱が起れば、そのショックで本当にイギリスの政府や議会はインドに自治を許すとマハトマはお考えなのですか?」とたずねると、ガンジーは「私はそれがイギリス政府や議会を屈伏させる手段とは考えていない」と答えている。ガンジーの一年以内に自治を獲得できるという見通しには確固たる根拠が無く、ある種の宗教的信仰のようであるようにボースには思えた。失望した様子のボースに、ガンジーはカルカッタのC・R・ダスを訪ねるようにすすめた。
もちろんボースは自分が革命家の道を選ぶきっかけとなったC・Rウダスに会うつもりだった。長い旅に出ていたダスはカルカッタを留守にしていた。ようやくダスに会うことができたボースはたちまちダスに魅了され、ダスこそ自分の求めていた指導者だと強く感じた。この時の様子をボースは次のように書いている。
「ダスがもう御殿のような家に住んでいなくても、やはり青年の友であり、青年の憧れを理解し、悲しみに同情を寄せるあのダスだった。私はダスと話している間に、ここに自らが何であるかを知り、自らの持てるすべてを与え、また青年たちにどんなことでも求めることのできる人物が存在しているのを発見した」
ダスはボースの才能と熱意を認め、ただちに国民会議派ベンガル支部の広報主任、義勇隊隊長、新設の会議派学校校長という要職に着けた。政治の世界に具体的な場を与えられたボースは精力的に活動を始める。
註 国民会議派 一八八五年開催の国民会議に始まるインドの政党。独立後は一貫して政権を担当している。
ハルタルとアムリツァルの悲劇
弁護士として二十年以上も南アフリカでインド民族運動をしてきたガンジーが帰国したのは一九一五年だった。ガンジーの思想は、ヒンドゥー教の源に帰り、イギリスの植民者の抑圧や弾圧に対しても暴力で立ち向かうのではなく、徹底的な自己犠牲と博愛の精神で相手の良心に訴えようとする「サチャグラハ」運動に凝縮されている。サチャグラハは力による弾圧に打ちのめされていたインドの大衆から広い支持を取りつけ、一九一九年、戦前の自治拡大の約束を反固にしたイギリス政府が治安維持の法律であるローラット法を成立させると、ガンジーは直接インド国民にハルタル(ゼネラルストライキ)を呼びかけた。四月六日のハルタルが行なわれるとインドの町や村からは人影が絶えたが、非暴力抵抗を意図したガンジーの思惑を越えて各地で暴動化し、イギリス当局との衝突を引き起こした。失望したガンジーは民衆の反省を求める演説を行ない、暴力の償いとして断食を行ない、ついに「サチャグラハは失敗であった」と、運動の中止を指示するにいたった。
パンジャブ地方の都市アムリツァルでもハルタルは成功を納めたが、その後、官憲の会議派指導者の逮捕・追放に抗議するデモが行なわれ、警官の発砲でインド人に数人の死傷者が出た。憤激した民衆が報復にヨーロッパ人を殺害し、ミッションスクールの白人女教師を暴行、重傷を負わせた。鎮圧に出動したイギリス人は指導者の演説に集まった数万の群衆に小銃で射撃を加え、千五百人を超える死傷者が出た。このニュースは厳重な報道管制が敷かれたがインド中に口から口へ伝わり、反英の空気は頂点に達した。
この年の暮れ、惨劇の地アムリツァルで開催された国民会議年次大会は空前の盛り上りを見せ、立憲的手段による自治への足ががりとしてインド統治法を受け入れること、アムリツァルの虐殺を非難し、総督の罷免、ローラット法の撤回を要求する決議を行なった。しかしハルタルで運動の担い手をして活動した下層中産階級や都市の労働者の代表は満足せず、これまでの指導者に代わり自分ではハルタルを失敗と考えていたガンジーの評価が高まり、翌一九二○年にイスラム教徒の反英運動のキラーファト運動がガンジーの説得により非暴力不服従運動に合流すると、ガンジーは次第にカリスマ的声望を得るようになった。
投獄・首席行政官
ボースがイギリスから帰国して、独立運動に加わったのはちょうどこのころだった。イスラム教徒とヒンドゥー教とを統合した反英独立運動がガンジーを指導者として組織されようとしていた。一九二一年九月、カルカッタでダスと会議派の幹部との会談が開かれ、ボースも出席し、会議派の要人たちとはじめて接触している。この会談でダスはガンジーに積極的に協力した。ダスは戦争中、治安維持のため投獄されていたベンガルの急進派を、ガンジーの非暴力不服従運動は民族運動を弱めるものではなくかえって強めるものであると説得し、会議派に吸収することに成功した。
十一月にイギリス皇大子がインドを訪問したが、国民会議派はボイコットしたため、皇太子はインド人の歓迎を受けることなく無人の町を視察しなければならなかった。このボイコットを組織したのは国民会議の義勇隊であったから、カルカッタの隊長であったボースは真っ先に逮捕され、六カ月の禁固刑を言い渡された。ボースの生涯における十一回に及ぶ投獄の体験の最初であった。
一九二二年の国民会議大会は大混乱となった。議長のダスやネルーの父パンディット・ネルーは会議派のそれまでの地方議会ボイコット方針を改め、議会内部から民族闘争を行なう戦術への転換を主張し、旧指導者と鋭く対立した。議長を辞任したダスは、会議派内に完全な自治を目指すスワラジ党を結成する。会議派から脱退しなかったが、ベンガル地方独自の路線を歩もうとしたのである。そして翌年の総選挙ではボースは選挙運動に邁進し、ベンガル州の各選挙区でスワラジ党は大幅に躍進し、一九二三年のカルカッタ市議会選では市議会の三分の二を制した。ダスはカルカッタ市長に就任し、腹心のボースを市の首席行政官に任命した。この役職は市議会を代表して行政権を行使し、市議会の事務局長を兼ねるイギリス植民地に独自の要職であり、弱冠二十七歳のボースがベンガル州第一の都市の首席行政官になったことはインド国中を驚かせた。
ビルマへの流刑
カルカッタのイギリス当局は勢力を拡大したダスのスワラジ党を弾圧する機会を狙っていたが、一九二四年の一月に過激派の一学生が警察署長と誤って無関係のイギリス人を暗殺するという事件が起った。学生は逮捕され、法廷の陳述で「罪の無いイギリス人を殺したことを心から後梅し、彼の霊を慰めるために自分の命をもって償いたい。そして自分の流す血の一滴一滴がすべてのインド人の自由をはぐくむ種子になればと願っている」と述べ、インド国中に広い感動を呼んだが、結局死刑の判決を受けた。ガンジーは事件に驚愕し「犯人の愛国心は認めるが、方向は誤っている」と言明した。これに対してダスはベンガル地方議会で「非暴力主義は守らなければならないが、青年の自己犠牲の精神は評価すべきだし、尊敬すべきである」と発言し、議会もこの意見に賛同する決議を行なった。
このような空気を危険に感じたベンガルのイギリス当局は、十月二五日、暴力革命を図っているという口実でスワラジ党員の大量逮捕に踏み切った。市長のダスは逮捕されなかったが、ボースはただちに逮捕された。慣激したダスは「市政の責任者は私である。ボースを逮捕するならなぜ私を逮捕しないのか」と迫ったが、ダスの声望を恐れる当局は取り合わなかった。ダスは民衆にボースの逮捕は不当であると働きかけ、民衆は何カ月間も公判なしに収監されているボースたちの釈放を要求する大規模なデモを実行した。実力によるボースの奪回を恐れた警察は、翌一九二五年一月、ボースの身柄をビルマのマンダレーの監獄に移した。
マンダレーの焦熱地帯にある木造の監獄は、マラリヤやデング熱などの伝染病を媒介する蚊の大群に悩まされ、直射日光が射しこむ最悪の環境に置かれていた。ボースはここでヒンドゥー教、イスラム教、キリスト教の宗教書やベンガルの文学や歴史の書物に読み耽り、インドの独立をはばむ原因の一つである宗教的対立をいかにして解消するか、そしてインド独立運動は将来どうあるべきなのかに思いをめぐらした。
獄中闘争で結核に
ところが、自分の手足となるスワラジ党を徹底的に弾圧されたダスがこの年の十月に急死した。この報せを聞いたボースは激しい獄中闘争をはじめ、年末には同志たちと二週間のハンストを行ない、極度に衰弱してしまう。翌年の暮れには肺炎を起こし、呼び寄せられたボースの弟で医師のスニルがボースには結核の疑いがあると診断し、獄外療養の必要を述べると、ベンガル地方政府はボースをインド国内に移すように主張した。だがデリーのインド政庁は、ボースの国内移送は治安の混乱を招くと反対した。そこでベンガル政府はボースをラングーンからスイスへ直接国外追放する案を提出した。ボースは「自分には国外亡命の必要は無い」と提案を拒否したが、日に日に病状が重くなり、ついに重体に陥ってしまう。カルカッタではボースの釈放を求める民衆の行動が激しさを増し、不穏な情勢についにイギリス当局も一九二七年五月十六日、ついにボースをインドに移してから釈放した。
釈放後まもなく、ひとりの日本人がボースを訪れている。カルカッタに開設される日本商品館の開所式にボースを招待するため、エルジン・ロードのボース家を訪れたのは高岡大輔である。一時間ほどの歓談で、ちょうど三十歳のボースは二十五歳の高岡に、日露戦争の日本の勝利がいかにインド人を勇気づけ、当時八歳だったボースもアジア人の白人に対する勝利に深い感銘を受けたことを物語り、自分たちスワラジ党はガンジーのような穏便な方法ではなく、実力でイギリスをインドから追い出し、日本のような完全独立を目指すことを力説している。これが日本人とボースの最初の本格的な接触であった。