一、少年・学生時代

第一章 ネタジ・スバス・チャンドラ・ボースの生涯

 一、少年・学生時代

 名門弁護士の六男
 スバス・チャンドラー・ボースは、一八九七年一月二十三日、西ベンガルのカルカッタという町に、父ジャンキナート、母プラババティの六男として生まれた。当時イギリスの植民地であったインドで、ジャンキナートの弁護士という職業は社会的な尊敬を受けるものであり、ボース家の家系は何世紀もさかのぼることができ、先祖から藩王国の大臣や顧間を輩出した名家であったからなおさら尊敬され、ボース家は上流階級に属し経済的にも恵まれていた。
 父親は公務に忙しく、六男のボースと接触する時間は少なく、インドの上流階級のしきたりにしたがって、母のプラババティは子供たちの養育を使用人に任せ、スバスは彼を「ラジャ」と呼ぶ乳母のサラダに育てられた。五歳になってイギリス式の小学校に入ったが、校長は二十年もインドに住みながらヒンドゥー語やベンガル語をおぼえようともしない尊大なイギリス人で、生徒にもイギリス人の子弟が多く、教育は英語で行なわれた。後のボースの英語が本国のイギリス人も目をみはらせるほど格調高いものであった素地はこのころから養われたものである。しかし運動神経の鈍かったボースは体操がにが手で、今で言う「いじめ」の対象にされたりもした。またボースはこの小学校時代に手ひどい人種差別を経験している。学内の少年団に加入しようとしたが、参加資格がイギリス人かイギリス人との混血に限られていたのである。このような環境から、幼年時代のスバスは感受性の強い、内気な幼年期を送ったらしい。
 宗教に関心の中学時代
 十二歳になり、ラヴェンショー中学に入ると、スバスは才能を開花させ、秀才の評判を得るようになる。この中学は自由主義的な校風で、英語だけの教育ではなくベンガル語も必修科目としていた。スバスはベンガル語やサンスクリット語で満点をとり、勉学の面白さを知り、その他の科目にも優秀な成績をあげた。校長のベニ・マドハブ・ダスは秀才のスバスをヒンドウー教の道へ導こうとし、スバスもダスの感化を受け、河岸で長い瞑想に耽ったりした。またこのころのスバスは民族主義運動に明確な関心は示さなかったが、宗教活動の一環として友人たちと社会奉社団体を組織して、セツルメント活動に従事することもあった。
 註 サンスクリット語はインド古代の一言語。文語として長く使われた。梵語。
 一九一三年、第一次世界大戦の勃発する前年の夏、十六歳のスバス・チャンドラ・ボースは二番の成績でカルカッタ大学予科に進学した。カルカッタはベンガル地方の中心都市であり、イギリスのベンガル地方の分割統治をインド中の反対運動を無視して強行した直後であり、ベンガルでは穏健派が多数を占める国民会議とは訣別した過激派が勢力を得ていた。この過激派の行動はその後もインド独立運動に大きく影響を与えることになり、ボースの独立運動もベンガルという土壌抜きには語れないと言う人がいるほどである。
 註 イギリスのインド進出一六○○年、東インド会社を設立、一七五七年プラッシーの戦いの後ベンガル地方に勢力を拡大した。一八五七年のセポイの反乱が始まると、翌年イギリスはインドを直轄領としている。
 精神的転機
 カルカッタ大学入学直後、スバスは精神的転機を迎える。ダスの影響もあり、ヒンドゥー教の原理主義に深く傾斜していたスバスは、哲学的・宗教的思索に耽り、ヒンドゥー教の苦行者になろうとし、忽然と大学から姿を消して国内巡礼の旅に出てしまった。考えに考えた末思い切った行動に出たスバスの青年らしいふるまいは周囲、特に両親を心配させ、修業場にいたスバスは二カ月後に家に連れ戻されてしまう。しかしこの二カ月の放浪は、スバスにヒンドゥーの聖者や苦行者が形式にとらわれて精神的に堕落し、現実社会に対する働きを失っていることを痛感させた。放浪の旅から帰ったスバスは宗教から政治へとその関心を大きく移したのである。
 オーテン事件で停学
 インドは第一次世界大戦にイギリス軍の兵士として百十万人の人間と三千四百万ポンドの軍需物資をヨーロッパ戦線に送った。イギリスは、戦争協力の代償としてインドに自治の範囲の拡大を約束したが、インドの総督の植民地統治機関であるインド政庁は、戦争協力を求めるだけで、自治の拡大には知らんふりをするだけだった。戦争による死亡者や負傷者の増大は「イギリス人はインド人を弾よけにしている」という噂を生むほどになり、さらに戦時経済による市民生活の圧迫はインド人の不満を高め、一九一六年にはアイルランドの独立運動にならった武力によるインド独立も辞さないというインド独立連盟が創立されている。政治に目覚めたスバスは大学で校内誌を創刊し、インド自治の討論の場とした。
 註 アイルランド 十二世紀以降イギリスの支配下に置かれる。長い武力闘争の後、一九一三年イギリス連邦内の自治領、三七年に独立し、四七年イギリス連邦を脱退。新教徒の多いアルスター州は現在もイギリス領であり、IRAとイギリスとの間に武力衝突がしばしば起きている。
 このようなカルカッタの状況のなかで、一九一六年の一月にオーテン事件が起る。オーテンはカルカッタ大学予科の歴史学教授で、日頃からインド人蔑視の言動が目にあまっていた。そのころカルカッタで起きていた市電のイギリス人優先席撤廃運動に参加した学生をオーテンがやくざ者呼ばわりし、平手うちを食わせたことから学生の憤懣が爆発し、ついにストライキに発展した。学生とオーテンの話し合いは決裂し、数人の学生が彼を殴り、級長のボースは扇動者とみなされ、学校当局から停学処分を受けた。ボース自身、すでに自分の人生は民衆のために捧げる決意を校内誌に発表していたが、後に自伝で「オーテン事件は私にとって大きな転機だった」と述べている。
 イギリス留学
 翌年の四月に大学に復学するとスバスは猛勉強を始め、一九一九年の五月、全学生中二番の成績で哲学科を卒業する。喜んだ父のジャンキナートは、その年の八月、過激派学生として警察から目をつけられていたボースを心配し、イギリスの大学へ留学し、インド高等文官試験を受ける準備をする決心を二十四時間以内にするように求めた。ボース自身は、イギリスのインド統治の手先となる気持ちはなく、今からイギリスに渡っても大学の新学期には間に合わないと考え、父親を安心させるためイギリスに出発した。スバスが船旅を終えてイギリスに到着したのはすでに十一月だったが、運よくケンブリッジ大学の新設の学部に入学することができた。
 ボースはイギリス人に対する新鮮な驚きを感じた。白人の召使がインド人であるスバスの靴を磨いてくれることにこの上ない喜びを覚えると同時に、植民地のイギリス人には見られない彼らの特質を鋭く観察している。友人への手紙で「イギリス本国人はたしかに彼らを偉大にした天性が備わっている。決められた時間まで真面目に働き、インド人が人生を悲観的にとらえようとするのとは異なり、しっかりした楽天主義をもっている。健全なコモンセンスを持ち、国益をこの上なく尊重する!」と書き送っているほどだ。
 インド高等文官への道を拒否
 一九二○年の七月にはボースはインド高等文官試験を受け、両親には自信がないと伝えたほどだったが、九月の発表では思いもかけず合格していた。合格者はイギリス本国のインド省に勤務でき、インド人官僚として最高の地位も望める資格が得られ、最も難しい試験といわれており、後のインド首相ジャワハルラル・ネルーも最初は失敗し、二回目に合格したほどの試験である。ボースは合格を誇りに思ったが、インドの大衆のために一生を棒げる決心をすでにしており、両親の勧める官吏への道を選ぶか深く悩んだ。父と子の間で八カ月の激しい手紙のやりとりが続いたが、ボースは官吏登用資格の返上をついに決意する。郷里ベンガルの革命家で、カルカッタの著名な弁護士デシュバンドゥー・チタ・ランジャン・ダスがベンガルの分割統治に抗議し、全ての地位を投げうってガンジーとともに不服従運動を組織し、その全財産を運動資金に提供した生き方を知ったためであった。
 革命家の道を選び、インド人学生としてはじめて官吏登用書類へのサインを拒否したボースが帰国の途についたのは一九二一年六月末のことであった。
 註 ネルー、P・ジャワハルラル インド独立運動をガンジーとともに達成した政治家。独立後初代の首相(一八八九~一九六四)。


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