随行したラーマン大佐の覚書

 九、ボース氏の最後の一日

 随行したラーマン大佐の覚書
 ネタジ・スバス・チャンドラ・ボースは今世紀のインド亜大陸が生んだ自由を求めてやまない最も偉大な革命の闘士であった。彼は一九四二年から一九四五年にかけ、東南アジアにおいてダイナミックな自由独立の闘いを起こしたが、不幸にもその最終的結果を目のあたりにすることなく、一九四五年八月十八日残酷な死の招きによりこの世を去った。この自由と独立の闘いはインドにおける外国の支配を徹底的に粉砕し、一九四七年八月十四日、独立国家インドとパキスタンをもたらしたのである。
   二
 彼は若いときに祖国の独立のために働こうと決心し、英国留学中、インド高等文官への道を拒否して、政治の世界に足を踏み入れた。間もなく彼はその時代の自由独立の闘士として第一級の人物とみなされていたが、軍事史を含む歴史の鋭い研究家でもあった。特に第一次世界大戦後のさまざまな従属国がどのようにして独立を達成したか研究し、最新の知識を得るためヨーロッパ各国を訪れている。彼はガンジーやネールを含むインド人指導者の「しばし待て、まず見てから」という方針には反対の立場だった。それは、大英帝国は第二次世界大戦で必ず崩壊するから、インド人はこの戦争の与える機会を逃さず、大いに利用すべきであると考えたからである。この観点から、彼は一九四二年、カブールからドイツヘ脱出し、一九四三年四月には六十三日間の厳しい潜水艦の旅の後マラヤに到ったのである。
  三
 彼は、自由と独立の戦いはその外部に二つの要素、つまり国民政府と国民軍が必要不可欠であると堅く信じ、まず日本政府の絶大な支援の下、東アジアの三百万インド人の支持で「インド独立連盟」として知られる政党を組織したのち、その二つを組織した。自由インド仮政府をつくり、その下に軍民からなるインド国民軍を置いた。彼は不撓不屈の精神と偉大な組織力の持ち主であり、東南アジアのインド人からの資金、労力、資材など、あらゆる支援を受けることができた。彼は自分たちの手で獲得できないものだけを日本軍の援助に頼るという考えだった。彼は大きな人間的魅力があり、民間人、軍人を問わず、その頃東アジアに住むインド人の心を鼓舞し、人々は彼の指揮下では自由と独立の戦いのためにはすべてを、生命をも捧げようと決心した。インド国民軍が前線で示した評価は、独立運動に対する確固たる忠誠心と献身が示している。
  四
 彼は仕事に対して疲れを知らない人間でした。東アジアのすべての国の政府と国民から高い尊敬を払われました。私は、このことを一九四四年十一月の日本訪問における首相を含む指導者たちとの会談から証言することができます。
  五
 この短い覚書では、極東における独立運動の詳細を語ることはできません。そこで、私のかかわった一九四五年八月の最後の日々について述べることにします。
 当時、私は参謀次長であり、シンガポールに司令部を置く二万三千のマラヤ方面の部隊の指揮官でした。一九四五年八月十四日、日本降伏の報せを受け取り、ただちに今後の行動を協議する自由インド仮政府の閣議が開催されました。この席上、ボース氏は次のように言われました。
 「友人たちよ、この未曾有の危機に際してひと言述べたい。それは決してこの一時的な失敗に気を落としてはならないということだ。元気を出し、勇気をもって進もう。インドの運命の岐路にあってわれわれは一刻もくじけていてはならない。前途に横たわる試練と苦しみに耐え抜こう。そうしてこそ極東における我々の闘いが祖国の人々に真の展望をもたらすことができる。この使命を果たすことができれば、全国民を独立への炎と化し、インドに対する外国の支配を揺るがすことができる。その時こそ我々の努力が報われることを確信する。もはやインド国民の自由を束縛する力は地上には存在しない。この切迫した試練のなか私は諸君と共にいるであろう」
  六
 この閣議で、日本政府と協議のためボース氏を翌日、東京に派遣すべきだという決定が行なわれた。一九四五年八月十五日の朝、ボース氏はハビブル・ラーマン、S・A・アイヤーを含む数人の将校を伴い、空路東京へ向った。途中、我々はバンコクに立ち寄り、シンガポールで飛行機を乗り換えた。ボース氏と私だけが東京へ向かう日本軍の高級将校と一緒の重爆撃機に搭乗できた。八月十七日午後一時三十分ころ、トュレーヌヘ着き、翌十八日に台湾の台北に小休止のため着陸した。燃料補給後、搭乗機は東京への最後の航路へ離陸した。空中で十分も経たないうち、実然鼓膜を破らんばかりの大音響がし、機は錐もみ状態になり、あっという間もなく機首から大地に叩きつけられ、燃料タンクが破裂し、機は火に包まれ、ボース氏と私は火をかいくぐって外へ飛び出した。機外に出ると、ボース氏の服に火が着き炎と格闘しているのが見えた。私は跳んで行って、火を消すと地面に寝かせた。ボース氏は頭部を深く傷つけ、そこからひどく出血しているのがわかった。全身に深い火傷を負っていた。私は傷が浅く逃げ出せていた。次の会話はその時のボース氏と私の間のものである。
 ボース 「君は大丈夫かね。傷がひどくなければいいが」
 ラーマン 「軽い傷で逃げ出せました」
 ボース 「私はこの事故から生き延びることはできそうにない。国へ帰ったら祖国の人たちに私が最後まで祖国の自由のために戦ったと伝えてほしい。今や何ものも祖国を縛り付けておくことはできない。我々は闘いを続けなければならない。間もなくインドは自由になるだろう」
  七
 私は、ボース氏のような未だ使命を果たさなければならない自由の戦士が目的の成就を見ることなく、なぜこのような運命にあったのか信じられなかった。間もなく我々は救急車で近くの日本の陸軍病院に移され、そこで軍医の手で治療を受けた。幸いにも私はずうっと意識があり、病院のベッドはボース氏のすぐと隣だった。ボース氏は少し話したが、その間ほとんど意識を失っていた。日本の軍医はできるかぎりの手当てをしたが、非運にも午後八時三十分、ボース氏は息を引き取った。彼の突然の死は私を打ちのめした。彼の遺体をシンガポールヘ飛行機で送ることが不可能であることがわかり、私も列席し、遺体は軍礼に則り火葬に付された。十二名の乗客のうち、四手井中将を含む六名が即死し、野々垣中佐、青柳操縦士、河野少佐、坂井少佐と私の五名が幸運にも生き残った。
   八
 一九四五年九月五日、私は坂井、中宮、林田氏とともに遺骨を東京へ運んだ。日本で、すでにサイゴンから来ていたアイヤー氏、ラマ・ムルティ氏、当時日本に住んでいた少数のインド人が立ち会って、遺骨は蓮光寺に預けられた。九月十九日まで私は日本に残り、日本人の心からのもてなしを受けた。十九日、私は藤原中佐、磯田中将を含む日本軍の将官、外務大臣とともに、歴史的なINA裁判に出廷するため、米軍機でデリーヘ向かい日本を発った。
  九
 歴史的な裁判の進展に伴い、インド国民軍の働きが明らかになり、すべてのインド国民の一人一人をインド亜大陸の知られざる歴史に熱狂させた。裁判の進行とともに、自国の自由のために戦う権利は道義的に正統なものであることが明らかとなった。侵略による外国の支配者も、インド国民の鼓動の高まりを聴き、祖国の自由のために戦った数千の将兵の自由を認めざるを得なくなった。時の政府も、ボース氏がインド国民軍と同志たちに残した最後の言葉が予想した愛国心の盛り上がりを突き崩すことはまったくできなかった。大英帝国は、支配力が弱まり、インド国民がイギリス人が母国に帰ることを要求していることを認め、インドをインド人の手に返すことを決めたのは一九四七年八月十四日のことであった。インド国民軍とその指導者、そしてあらゆるインド人がすべて自由の身となった。
 ボース氏が自分自身の国で、生涯にわたる長い自由への戦いの成果を見ることなくこの世を去ったのは、実に大いなる悲劇である。インドのたくさんの人たちがボース氏はいまだ生存しており、いつの日か帰国すると信じている。どれほど我々がボース氏の生存を願っていることだろうか。もしそうであれば、ボース氏はインド政界において偉大なる位置を占めているに違いないからである。また、今日のインドとパキスタンの苦渋に満ちた関係よりも親密なものとなっていたであろう。ボース氏は最も賢明で公平な指導者として知られていた。彼の灯した自由への炎はさらに大きく燃え上がり、いかなる時代にも、地球上のすべての自由を求める戦士たちの道を明るく照らし続けるに違いない。
 そして、ビルマ、インドネシア、フィリピンなどの東アジア諸国の植民地支配は一掃され、次々と独立し得たのは、日本が育んだ自由への炎によるものであることを特に記さなければならない。これらの国々はすべてが日本に対し感謝の念を抱いているのである。
  ハビブル・ラーマン大佐の回想
 病院を退院したハビブル・ラーマン大佐が日本の将校に突き添われてサハイ家に送られてきた。健康状態について語った後、ラーマン大佐はネタジとともにした最後の飛行の経過を詳細に語った。ハビブルは面手と顔、頭に火傷を負い、まだ包帯が巻かれていた。顔はやつれ、貧血気味だった。カーキ色の毛の戦闘服、半ズボンに乗馬靴を身に着けていた。これはサイゴンで最後に見たものか、それに類似していた。席に着いてから五分以上の沈黙の後、アイヤーとハビブルは八月十七日午後にサイゴン空港で別れてからのすべての出来事について話し始めた。
 ハビブルは、低い慎重な口調で夢のような話を始めた。
 サイゴンを発ってから約二時間でトウーランに着陸し、その夜はそこに足止めされた。翌早朝、再び離陸し、台北空港には午後二時ごろ到着した。
 飛行機が燃料を補給している間に、我々は食事をし、出発に備えた。私は、寒いところを飛行するので暖かいものに着替えるよう、ネタジにも勧めたが、ネタジはそうしなかった。ネタジは勧めを笑い、暖かいものに着替えるのを急ぐ必要はないと言った。ネタジはカーキ色の戦闘服にズボンを身につけており、毛の衣類に代えるためそれらを脱ぐのを急がなかった。半時間後、我々は飛行機へと歩いて行った。飛行機が離陸したのは午後二時三十分だった。たしかに滑走路を二、三百フィート走った。飛行場の一番端だった。空中に浮んだのはわずか一、二分だった。
 突然轟音がした。地上で何か起こったのか? 私は敵の戦闘機が我々が台北飛行場を離陸するのに照準を合わせ、一斉射撃を行い命中したのかと考えた。
 操縦士はどうすべきなのか? 強行着陸は出来ないのか? さもなければ飛行機が破壊するのでは? 現実はあたりに敵機はなかった。後に、左側エンジンのプロペラの羽板が壊れたことを知らされた。
 左側のエンジンが稼働していなかった。右側のエンジンだけが働いていた。もう機体が揺れ、操縦士は右側のエンジンで機のバランスをとろうとしていた。またたくうちに高度が落ちた。振り返ってネタジを見たが、ネタジはまったく平静だった。飛行機が長い飛行を終え、完璧な着陸をしようとしている時以上に落ち着いていた。しかしネタジの顔にはこれ以上はない心配の表情があったのは確かだと思う。
 その時何も考えられなかったことが今では不思議だ。しかし最後の時が数秒後だと考えたことは確かだ。二、三秒も発たないうちに飛行機は機首から墜落し、そしてしばらくして全てが闇に包まれた。
 二、三秒後に意識を取り戻し、荷物が私の上に崩れ落ち、火が私の方に向っていることに気づいた。後方の出口は貨物で閉ざされ、前方の出口へは火の中を突っ切って行かなければならない。ネタジは頭を負傷していたが、火から逃れようと私の方へ後部出口から脱出しようと足を懸命に動かしていた。だがそれは出来なかった。逃げ出せる隙間は一センチもなかったからだ。だから私はネタジに「アーゲセ ニクリエ、ネタジ」(前から脱出してください、ネタジ)と言った。
 彼は状況を認めると、既に崩れ落ちている機首を抜けて逃げようとした。両手で火を払い除けていた。ネタジは外へ出て立ち止まり、十フィートか十五フィート離れた私の姿を心配そうに探していた。
 飛行機が墜落した際、ネタジは木綿の軍服の上から燃料の飛沫を被り、燃えている機首から出ようとする時それに火が着いた。彼は燃えている服のまま立って、腰の周りの戦闘服のベルトを外そうと懸命だった。
 私は彼に駆け寄りベルトをはずすのを手伝おうとした。この時、私の両手が焼かれた。ベルトをいじりながら彼を見上げ、鉄板で打ちのめされ火に焼かれたネタジの顔に、私は心臓が止まりそうになった。その数分後ネタジは意識を失い台北飛行場の大地に横たわった。
 私も困惑しネタジのすぐ横に行き横になった。他の人たちがどうだったかほとんど知らない。遭難した飛行機の残骸とあたりに一面にばらまかれた我々搭乗者が悲惨な光景を呈していた。
 次に私が憶えているのは、自分が病院でネタジの隣に横にされていたことだ。墜落の十五分以内に軍の救護班が駆けつけ台北市の病院に直行したことは後になって知った。病院に到着直後、ネタジは意識不明の重体だった。
 ネタジはしばらく意識を取り戻したが、また昏睡状態になった。私はそうひどく傷や火傷を負っておらず、どうにか立ち上がることが出来たので、足を懸命に動かし、やっとのことでネタジの方に行くことが出来た。日本人はネタジを救おうと超人的な努力をした。しかしそれはすべて内科的なものだった。病院に運び込まれて六時間後、つまり一九四五年八月十八日午後九時、ネタジは静かに息を引き取った。
 あなた方に、私にとってでなく、ネタジにとっての六時間の死への苦痛を説明することは不可能だ。この六時間の間に、身をよじる程の苦痛があったはずだが、ネタジは一度も苦痛を口にしなかった。短い言葉を出すだけで、ネタジの意識はずうっと薄れていた。
 そのような瞬間に、ネタジがハッサンの名前を口にした。近くに座っていた私は「ハッサン ヤハン ナヒ ハイン、サプ、マイン フン、ハビブル」(殿下、ハッサンはここにはおりません。ハビブルがここにおります)と言いました。
 ネタジははっきりと死を覚悟していた。臨終のほんの少し前、ネタジは私に「ハビブル、私はまもなく死ぬだろう。私は生涯を祖国の自由のために戦い続けてきた。私は祖国の自由のために死のうとしている。祖国に行き、祖国の人々にインドの自由のために戦い続けるよう伝えてくれ。インドは自由になるだろう。そして永遠に自由だ」と言った。
 それがネタジが私に言った最後の言葉だ。私は打ちのめされてしまった。私はどうなってもかまわなかった。何も興味を引かなかった。日本人たちは私をなだめ最善を尽くし栄養をつけるため食物を摂らせようとしたが、それはまったく役に立たなかった。
 話せるまでに回復したと感じた時、私は彼らに出来ればシンガポールへ、それが問題外であれば東京へネタジの遺体を運ぶ飛行機を用意するよう頼んだ。そうすると約束してくれた。みなが最大限の努力をしてくれたと私は思っている。しかし彼らはネタジの棺を飛行機に運び込むには実行するうえで困難があることを伝えた。さらに、ネタジの遺骸を運び出せないなら早急に火葬の用意をすべきだといった。彼らは私に同意を求めた。私には台北での火葬に同意する他に道はなかった。葬儀は病院が用意し軍の礼儀に則って神社で行われ、ネタジの遺骨は壺に納められ神社に安置された。
 傷はなかなか治癒しなかったが、健康状態はゆっくりと回復したので、私はこれ以上の入院は一日も望まず、出来るだけ早くネタジの遺骨を東京へ運ばなければならないことを日本側に述べた。私を台湾から東京へ輸送するのが問題で、日本軍の司令部の頭痛の種だった。台湾から日本へ行く船も飛行機もなかったから、日本軍には私を船で運ぶか飛行機にするか決められなかった。私は日本に行く輸送を望み続けた。
 東京へ着く望みがなく、三週間が過ぎた。突然、台北を立つ患者輸送機が一機あり、席がとれたことが知らされた。私はネタジの遺骨を持ってその飛行機で東京へ到着したのは九月六日だった。私は秘密保持のため、ただちに東京の郊外に連れて行かれ、最初にネタジの遺骨と私が都内に連れて行かれたのはそのわずか二日後だった。
 留学生たちはラマムルティ家でネタジの遺骨に三日三晩の通夜を行った。遺骨がサハイ家に移されてから、そこでさらに三日間の祈りが捧げられ、九月十四日の夜、遺骨は留学生やアイヤー氏、サハイ氏とその子供たち、ラマムルティと家族等の手で杉並区の蓮光寺に密かに移された。その寺には何人かの日本の高級軍人がいた。戦争についての話し合いがされ、骨壺はその寺の住職の厨子に入れられた。骨壺は現在その寺の安全な管理の下に置かれている。


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