イラワジ会戦・日本の隆伏・ネタジ台北に死す

 八、イラワジ会戦・日本の隆伏・ネタジ台北に死す

 三たび東京へ
 一九四四年十月、ラングーンに帰ったボースは、インパール作戦後に就任した木村兵太郎ビルマ方面軍司令官がビルマ西部を放棄し、イラワジ河の線で英印軍の攻勢を防ごうとしていることを知り、インド国民軍第二師団を協力させることにした。そしてインド国民軍の首脳に対し、「この敗勢にあって、なお日本軍と肩を組み提携を続けることに疑問を持つ向きもあるだろう。しかしいま日本軍を裏切れば、われわれは景気の良いときだけ日本軍と手を組んだというそしりを受ける。また武装闘争を続けることが、英印軍にわれわれの不退転の決意を悟らせ、インド人兵土をイギリスの支配からわれわれの側に走らせることになる」と説得した。
 サイパンが七月に陥落し、東条内閣は小磯内閣に交代していたが、ボースはインド国民軍の増強や武器供給などを煮詰めるため、十一月一日、三度目の東京訪問をした。十一月三日、日比谷公会堂で『スバス・チャンドラ・ボース閣下大講演会』が催され、ボースは会場を埋めつくした日本人に対し二時間を超える演説を行なった。ボースは「自由インド仮政府は東亜にあるインド人の人的・物的資源を総動員して、日本との共同の戦争目的に向って生死をともにしようとしている」ことを強調し、演説が途中で中断されるほどの拍手喝采を受けた。
 この東京訪問には、自由インド仮政府の権威確立の目的もあった。日本は前年十月の仮政府樹立直後に仮政府を承認していたが、まだ外交使節の交換をしていなかった。ボースが日本の軍部を説得し、日本政府は公使を派遣することを認め、翌年二月、蜂谷輝雄公使がラングーンに赴任した。公使交換により名実ともに独立政権として地位を確立するというボースの狙いは、蜂谷公使が臨時政府派遣ということで天皇の信任状を持たなかったために不完全だったが、ある程度達成されたといえよう。また、ボースはそれまでは日本からの無償の援助は断り、仮政府や国民軍の経費を受け取る場合には借用書を発行していたのを政府間の正式協定にしようとした。日本政府も認め、新たな一億円の借款協定が内定した。日本の関係者の中には、形式的なことにこだわりすぎるという非難の声もあったが、ボースにとって自由インド仮政府の独立性の明確な確保は、将来を考えると何よりも重要なことだった。
 東京滞在中、ボースは失脚した東条前首相を私邸に訪れ歓談し、病の床にあったビハリ・ボースを訪問した。このときチャンドラ・ボースの手を握り、「ネタジよ、君の力で私の生涯の悲願だったインド独立を達成して欲しい」と涙を流して告げた病床のビハリ・ボースはその二カ月後に亡くなっている。さらに、マレー、シンガポールなどの優秀なインド人青少年からボース自身が選び、将来のインド国民軍の幹部として日本に学んでいた留学生を陸軍士官学校や航空士官学校に訪れ、「ビルマ戦線に加わりたい」と言う留学生たちに、「諸君はまだ幼いのだから落ち着いて勉強しなさい。それがやがて祖国に役立つ日が必ず来る」とさとしている。つけ加えれば、このインド人留学生と日本人の結びつきが、後に日本のスバス・チャンドラー・ボース・アカデミーの設立、アカデミーの長い活動の原点となっている。
 イラワジ会戦
 ラングーンに戻ったボースは、これまで日本軍の補助的戦力をして扱われることが多かったが、イラワジ河防衛ではマンダレーとプロームの中間正面を主力として担当するインド国民軍の拡張と再編成にとりかかった。ボースの呼びかけに応えた東南アジア各地からの志願者を加え、イラワジ会戦に臨む一九四四年十二月末のインド国民軍は次のような編成となった。
  第一師団 師団長シャヌワーズ・カーン大佐
    第一遊撃連隊 連隊長は師団長の兼任
    第二遊撃連隊 連隊長I・J・キアニー中佐
    第三遊撃連隊 連隊長グルザラシン中佐
  第二師団 師団長アジス・アーメド大佐、シャヌワーズ・カーン大佐
    第一歩兵連隊連隊長S・M・フセイン中佐
    第二歩兵連隊連隊長P・K・サイガル中佐(師団長代理)
    第四遊撃連隊連隊長G・S・ディロン少佐
  第三師団 師団長G・R・ナガル大佐 マレー北部で訓練中
    第六歩兵連隊連隊長A・I・S・ダラ中佐
    第七歩兵連隊連隊長グルミットシン中佐
    第八歩兵連隊連隊長ビシャンシン中佐
 国民軍の主力は第二師団で、新編成の歩兵連隊は兵員を六百人増員し二千六百人とし、追撃砲と重機関銃を装備し、どうやら野戦を行なえる形になった。一九四五年一月に英印軍がイラワジ河に追ると、インド国民軍第二師団はマンダレーとエナンジョンの中間にあるポパ山を中心に布陣し、日本軍の第二十八軍の防衛する右翼部分を担当することになった。
 ポパ山の戦闘
 第二師団はポパ山に向け七百キロの徒歩行軍を開始した。師団長のアーメド大佐が出発前日のラングーン空襲で負傷しショックで寝込んでしまったため、サイガル中佐が師団長代理となり、二月二十三日、北方の第二十八軍司令部に到着した。第二十八軍では、インド国民軍は英印軍並みの優秀装備と考えており、独立した作戦を任せるつもりでいた。しかし実情を知っている第二師団の先任連絡将校の桑原少佐が、第二師団の砲兵大隊は現在マレーに残っていてこの作戦には間に合わず、重火器も八十一ミリの追撃砲が最大で、重機関銃が少々ある程度であり、小銃の弾薬も一人当たり二百発しかないという説明に、日本軍参謀たちが驚いた。第二十八軍にも国民軍に分け与えられる弾薬はまったくなかったからだった。
 二月十日ごろ、ミンギャンで陣地構築中の第四遊撃連隊は、有力な英印軍に備えパガンの守備を急に命じられた。十二日にパガンに到着したが、陣地をつくる暇もなく対岸から砲撃を受けた。翌日の偵察部隊の攻撃は退けたが、十三日には戦爆連合と砲兵を伴う本格的渡河攻撃を受け、その夜に連隊は壊乱状態となり、ポパ山の国民軍第二師団司令部には五百名がやっとたどり着いただけだった。
 ディロン連隊壊滅の報を聞き、インパール作戦の失敗は自分が陣頭に立たなかったからと考えたボースは、第一師団長に任命したシャヌワーズ・カーン大佐を伴って戦線に向った。すでに主要街道はイギリス軍機が跳梁し、夜間しか進めなかった。メイクテーラの近くでは戦車部隊が接近しており、空からの攻撃も激しくなった。周囲の者が後退を進めたが、ボースは「戦況の不利な時ほど最高司令官が前線に赴かなければならない。私がいまポパ山で第一師団を陣頭指揮して戦死しても、独立運動の精神はインド人の中に力強く残る。ここで最後の決戦をしなくてはならない」と言い張った。シャヌワーズ大佐が、ポパ山も猛烈な爆撃を受けて行るという情報を入手し、危険だから思い止まるように説得し、ボースもやっと後退に同意した。
 二月末、ポパ山にはインド国民軍の第二歩兵連隊が到着し、第二十八軍から派遣された干城兵団の一個大隊も到着し防衛体制が整った。インド国民軍はポパ山周辺で遊撃戦を展開し、いたる所で敵斥候と衝突したが、敵の斥候は積極的な戦闘を挑まないで後退するのが常で、初陣の第二歩兵連隊の士気は大いに高まった。ところが、三月のはじめに師団司令部の作戦参謀以下五名の将校が敵に走るという事件が起った。サイガル中佐は、味方の少ない兵力、貧弱な装備が敵に知られることを予想し、用心深い英印軍を不安な状態に置くため、敵の占領地に絶えず遊撃部隊を送って撹乱した。戦車を伴った五百の敵がポパ山正面に攻撃をかけてきたが、断崖の地形を利用し、二個小隊で丸一日がかりで阻止、撃退したこともあった。
 三月中旬には干城兵団と密接に協力し、インド国民軍はパガン方面に攻撃前進している。このような協力関係は、ポパ山の日本軍とインド国民軍の将兵の間に友情をはぐくんだ。インパール作戦の教訓から、インド国民軍への食料補給は光機関によってどうにか行なわれたが、弾薬の補給はどうすることもできず、サイガル中佐に「いま手持ちの弾薬は二時間分しかない。射ちつくした後はどうなるのか。攻撃なら銃剣突撃もできるが、弾薬なしの防衛戦闘が成立するのか」と聞かれた桑原少佐が答えに窮するというのが補給の実状だった。
 ラングーン攻撃
 四月一日に、ポパ山北方の敵の補給基地の攻略を命じられた干城兵団とインド国民軍第一師団は攻撃を開始した。しかし頼みの十五センチ榴弾砲が爆撃で破壊され、北からの英印軍有力部隊の反撃も受け、攻撃は挫折し、翌日レジに後退し防御に転じた。三日には英印軍が戦車と砲兵を使用し本格的攻撃をはじめ、国民軍は丸々一昼夜もちこたえたが、四日に大隊長が部下を率いて逃亡したため、戦線はついに崩壊した。
 シャヌワーズ・カーン師団長は部隊を再編成し攻勢を試みようとしたが、四月八日にビルマ国軍が日本軍に反乱したことを知り、十四日、ポパ山からの撤退を決意する。シャヌワーズ大佐は各地で戦闘を交えながら十八日にイラワジ河東岸に到着したが、翌十九日、イギリス戦車部隊の奇襲を受け、師団は四散した。その後、サイガル中佐は部下と共に潜伏したインド人部隊をイギリス軍に包囲され、爆撃を恐れた村人の説得で降伏する。シャヌワーズ・カーン大佐はプロームで自分の部隊がモールメンに向かったのを知り、ディロン中佐とあとを追ったが、五月十八日イギリス軍に包囲され、交戦ののち補らえられた。
 ちょうどそのころ、イギリス軍戦車部隊は首都ラングーンに追り、四月二十日、ビルマ方面軍はラングーン放棄を決意し、ボースにもモールメン撤退するよう要望した。だが「喜びも悲しみも将兵と分かちあい、勝利の時も苦難の時も常に将兵と共にあるのが最高司令官だ」と考えていたボースは「部隊を置き去りにして逃げられない」と要望を拒絶した。またビルマ方面軍は、インド国民軍は現在地で武装解除し、兵器弾薬を日本軍に引き渡し、各自の身の振り方は各自の自主判断に任せるよう提案したが、ボースは「国民軍は完全武装のまま自分が陣頭指揮し、最後までイギリス軍に抵抗し、抵抗力が尽きたときはじめて降伏し、イギリスの手でインドに連れて行かせる。そして捕虜になった兵士の口から、祖国の民衆にわれわれがいかなる理想のもとに何をしてきたかを語らせる。それが独立への火種を残すことになる」と、厳しくこれを拒否している。
 しかし仮政府閣僚が撤退を進言し、国民軍軍医部長のロガナンダ少将が、国民軍の撤退とインド人居留民の保護を責任をもって引き受けると申し出たため、ボースはついに撤退を受け入れた。だが、国民軍の武装解除には絶対に武装解除はしないこと、後退してくるジャンシー連隊の到着を確認してから出発することは決して譲ろうとはしなかった。四月二十四日、ボースは仮政府閣僚、国民軍司令部要員、ジャンシー連隊とともに、ペグーからモールメンを目指し、トラック十二台でラングーンを出発した。翌日、燃えさかるペグーを通過したが、それはイギリス軍戦車部隊が到着するわずか一日前だった。
 ペグーを出てまもなく、ワウ川にさしかかると橋が破壊されていた。日本軍の輸送指揮官が「ぐずぐずしているとイギリス軍に追い着かれる。いかだで渡りましょう」と言うと、ボースは「男はいかだでもいいが、ジャンシー連隊の隊員はみな良家の子女で水泳の心得はないだろう。戦争だから敵弾に当って死ぬのはやむをえないが、一人だけでも溺死させては親兄弟に申し訳が立たず、私の政治生命も終わりになる。橋が修理されるまで待とう」と言い、全員が渡り終わるのを待って先に進んでいる。二十七日のシッタン河の渡河でも、ボースは同様にしている。イギリス軍の急追を心配した同行の光機関長磯田中将がボースに真っ先に渡るように言うと、ボースは「とんでもない、ジャンシー連隊の娘たちが全員渡り終えるまで絶対に渡河しない」と答え、光機関のシッタン支部が探してきたトラックに乗るように磯田中将が言うと、「これからはジャンシー連隊と一緒に行動する。私は部下を捨てて逃げたバー・モウとは違う」と、婦人部隊の先頭を歩き出した。
 五月三日、モールメンに着き、九日にはタイのバンコクに向け出発した。やはりジャンシー連隊や国民軍全員が汽車やトラックで出発するのを見届けてからだった。
 ソ連との提携案
 一九四五年五月二十五日、トラックと汽車と馬車を乗り継いでボースはバンコクに到着した。あらゆる面で情勢は決定的に変化していた。インド国内では、釈放されたガンジーはムスリム連盟の指導者アリ・ジンナーと会談を繰り返していた。ジンナーの要求は独立に際し、イスラム教徒の多い地域にヒンドゥー教徒とは別の国家をつくることだった。ボースはラングーンからの放送を通じ、「ガンジーはヒンドゥーの代表としてではなく、全インド人民の代表としてジンナーと話し合わなくてはならない」と述べ、イスラムとの分離により独立運動の分裂を図るイギリスの策謀に乗らないよう注意を喚起していた。しかし、五月にドイツが降伏すると、イギリスのチャーチル内閣は自治付与の妥協案を六月に発表し、ネルー、アザードなど会議派の指導者たちを釈放し、六月末にはインド人各派の代表をシムラに集め、自治政府のメンバー選定協議を開始した。
 ボースの警戒した中途半端な独立が実現されようとしていた。ボースは「形式的独立ではなく、武力闘争を通じて古い社会の枠組みを壊さなければ、インドの後進性は打破できない」という考えを変えず、イギリスの甘言に乗せられ独立闘争を放棄しないように訴えた。しかし、釈放された会議派の指導者たちは、「ボースは日本の傀儡であり、イギリスの譲歩に応えず、派閥的感情からネルーやアザードを攻撃している」という非難を繰り返していた。
 すでにインド国民軍はビルマから撤退しており、東からのインド進攻は不可能だった。しかしボースの手もとには、残在兵力の他に、マレー半島で訓練中だったインド国民軍第三師団が無傷でタイに移動中であり、約二万の兵力があった。ボースは、国民軍を中国北部に移動し、臨時政府を北京、上海、天津のいずれかに置き、ソ連大使館と密接な連絡をとり、中央アジアからインドヘ進攻するという壮大な構想を考えていた。ドイツ敗戦後の世界は英米とソ連の対立が激化することは必死だから、イギリスの敵であるソ連だけが武力によるインド独立闘争を支援する可能性がある国だと考えたからである。
 ポツダム宣言
 しかし日本軍の大本営は、すでに戦争の終結を有利にする作戦以外を考える余裕はなかった。六月十八日、ボースのもとに参謀本部情報部の高倉盛雄少佐が大本営の考えを説明するために派遣され、臨時政府と国民軍は南方総軍の指揮下で行動するように求めた。ボースは納得せず、会談は夜中の三時まで続けられ、根気よく説明を繰り返す高倉中佐の説得に、ボースはしぶしぶ大本営の希望に沿うことを認め、タイにいる国民軍すべてがサイゴンに後退したのち、臨時政府の閣僚とともにサイゴンヘ移ることを決心した。
 八月十一日、マレ半島中部のイポーで第三師団の訓練をしていたボースに根岸忠素通訳がタイ駐在の坪上大使からの極秘書簡を持参した。直接ボース自身に手渡すように命じられていたが、なぜか封が開いており、根岸通訳が目を通すと日本がポツダム宣言を受諾し、連合国に降伏することが英文で記されていた。「天皇の大権」を表すprerogativeという単語があまり使われない言葉なので辞書で確かめたことを根岸通訳はいまでも記憶している。
 ボースは「またアトミック・ボムでも落ちたのか」と言いながら読むと、師団長に訓練中止を命じた。連合国の短波放送を聞くボースは数日前から知っていたようだ。日本の降伏を信じられない根岸通訳が「何かの謀略ではないでしょうか」とたずねると、「いや、明白な降伏だ」と答え、さらに「天皇陛下が降伏の命令を出されるだろうから、日本人としては従うしかないだろう。しかし安心しなさい。陛下は退位されるかもしれないが、その場合は摂政を置けばいい。日本は絶対に滅びない。しばらくは占領されるだろうが、独立も回復できる。しっかりやりなさい」とはっきりと根岸通訳を励ますほどだった。
 最後の飛行
 ただちにシンガポールに戻ったボースは、根岸通訳に日本からの借款の残りを南方開発金庫から引き出すように命じた。国民軍将兵と仮政府職員の退職金に充てるためだった。危急の際にも沈着さを示すボースに根岸通訳は感服した。解散したジャンシー連隊のタイ出身の二名の女性が汽車に乗り遅れたことを知ると、駅に行って列車に乗り込むところを確認させてから、ボースは南方総軍と協議するため空路サイゴンに飛んだ。
 南方総軍の寺内総司令官を訪れたボースは、ソ連行きの飛行機の手配を要請した。提供された飛行機は双発の九七式重爆撃機で、関東軍参謀副長に就任する四手井中将のほか、連絡のため東京に向かう七名の日本軍将校が同乗し、ボースたちに提供された席は二座席しかなかった。仮政府の主要閣僚の同行を予定していたボースは憤慨したが、副官のハビブル・ラーマン大佐一人を同行することにしたが、他の閣僚や国民軍首脳が次の飛行機で後を追うという確認がとれるまで動こうとしなかった。
 八月十七日の夕方、九七式重爆がサイゴン飛行場の滑走路を走り出すと、一台の車が走りよってきた。仏印のインド人が寄進した貴金属や宝石を積んだ車がこちらに向かっているという知らせだった。三十分後、財宝を積めた二個の重いトランクが機内に積み込まれた。定員を三名もオーバーした機は滑走路いっぱいに使って、午後五時サイゴンを離陸した。
 台北、松山飛行場にネタジ・ボース死す
 二時間後、サイゴンとハノイの中間のツーランに着陸し、機の重量を軽くするため操縦士が六丁の機関銃と弾薬を降ろした。翌十八日の早朝、機はツーランを飛び立ち、正午すぎ台湾の台北にある松山飛行場に到着した。ボースたちは天幕の中で昼食をとり、搭乗員たちは機体の点検をして燃料を補給した。エンジンテストをしたが異常はなさそうだった。ソ連軍がすでに旅順を占領したことが知らされ、一八〇〇キロ先の予定地大連に暗くならないうちに到着するため、午後二時に機は離陸した。
 離陸直後、ハビブル・ラーマン大佐は轟音を聞く。敵機による攻撃かと思ったが、左側のエンジンのプロペラが吹き飛び、ショックでエンジンが外れた音だった。たちまちバランスを失い、飛行場のはずれに落ちた機は二つに折れ燃え上がった。ラーマン大佐が「後ろから出ましょう」とボースに叫び、転がり出たとたん爆発が起き、大佐は地面に叩きつけられた。顔をあげたラーマン大佐の目に、火炎に包まれてこちらに歩くボースの不動明王のような姿が映った。全身にガソリンを浴び、頭から血が吹き出していた。
 南門の陸軍病院で治療を受けたが、ボースの容態は絶望的だった。インドの独立を日本との協力により、実力で達成しようと闘ったスバス・チャンドラ・ボースが最後に息を引き取ったのは一九四五年八月十八日の午後八時だった。


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