私のボース氏との出会いと氏の最期 高倉盛雄

 私のボース氏との出会いと氏の最期
元大本営陸軍参謀中佐 高倉盛雄
 私は、インパール作戦直後の一九四四年七月、参謀本部第七課(支那課)から第四班(主務謀略)に移った。前任者(尾関中佐)から引き継いだ重要業務は、インド工作というよりもインド国民軍(INA)の再建工作だった。当の相手は、失意のスバス・チャンドラ・ボース氏であった。ボース氏は、インド政界でネール氏と争ってドイツ亡命中、潜水艦で日本に迎えられ、ネタジといわれた人である。
 この国民軍は、南方戦線のインド人俘虜で編成された部隊に始まり、戦局の進展と共に雪達磨式に増え、統制のとれたINAとなってデリーヘ!を叫んで立ち上った。国民軍は一九四三年九月一日正式にシンガポールで編成され、寺内南方軍総司令官の指揮下に入り、その用法に基いて逐次再編装備されて、大本営のインド工作骨幹の部隊となった。
 ビルマの第十五軍(久野村参謀長、藤原参謀)は、同年八月二十六日ボース氏に軍の「インパール作戦計画」を打ち明け説明した。この作戦計画は、実は牟田口指令官に反対する小畑参謀長を更迭までして計画した因縁づきのものだ。デリーを目指す国民軍には千載一遇の作戦であり、ボース氏宿願達成の作戦だった。
 インパール作戦は中央の認可をえて、翌一九四四年三月に開始された。しかし軍の補給が続かず、インパールを指呼の間にして挫折した。国民軍は遊撃に特務工作に情報収集に敢闘したが、ビルマに後退せざるを得なかった。
 国民軍のインド再進入の企図は、英印軍急追の前に実現されることなく、翌一九四五年八月十五日の日本軍の終戦を機に完全に水泡に帰した。ボース氏は終戦直後祖国の独立を胸にソ連国境に向ったが、神は味方せず途中八月十八日台北における飛行機事故で雄図空しく潰え去った。まさに大悲劇の終幕だった。
 氏の遣骨は東京に運ばれ、中野の蓮光寺に安置された。氏の胸像はボース・アカデミーの手で三年前にこの寺に建てられた。来年(一九九五年)は氏の逝去の五十周年を迎える。
 顧みると、私は(参本第二部長)有末中将に随行して、インパール敗戦再興、インド再進入を期し来日するボース氏を、一九四四年十月三十一日羽田に出迎えた。インド工作担当の光機関長磯田中将が同行していた。ボース氏は昼間は関係方面への表敬に忙しく、参本側(有末・永井・高倉)との要談は、連夜帝国ホテルの暗い電灯下で行われた。案件の自由インド仮政府と国民軍との強化については、光機関・軍政・外交要員・インド士官候補生教育受入れ等は話合はスムースに進んだ。
 仮政府派遣代表部の蜂谷公使、柿坪書記官の人事もみられた。しかし国民軍の装備強化となると、国軍が南方総軍で編成され、現地軍の指揮下に運用されているので殊に南方への補充補給も意のようにならない現在の戦局上、現地軍の自由裁量にまつしかない。ボース氏はいたたまれず、自己破滅をおそれて南方総軍の頭越しに東京直訴となったものだろう。東京としてはボース氏には悪いが、総軍にお伝えしますと逃げるしかない。だが東京は、ラース・ビハリ・ボースのときから肩入れし統けていたのに、余りに素っ気なくては正義が通らない。
 ここでわが方の弱り目を正直に胸襟を開き過ぎては、破滅に通じる。国民軍に希望だけは持たせたい。ビルマ正面の英印軍の反攻を前に、内輪同士の勝負にもならない熾烈な駈引きだった。国民軍は、目指すインド独立戦のためにビルマに健在させたい。この重要なときにネタジのビルマ不在一カ月は許されない。しかも連日の対日交渉は、成果が装備の強化につながらずむしろ失意に近い。彼が精魂を使い果たし空しい心を抱いての帰還を、十一月二十九日羽田に見送る私たちの心中は複雑だったそのときを回顧しては心が傷む。殊に終戦直後の八月十八日(私は軍使随員としてマニラに出発の前日)、氏がインド独立を期して亡命のためソ満国境に向って飛行中、不幸台北で不慮の死を遂げたこととも関連し重なり合って、悔恨の情は深く私の心を苛む。
 さて、一九四四年のインパール作戦の失敗は、大本営に大衝撃を与えた。一方インド仮政府にとっては、英の桎梏から祖国インドの解放、独立実現工作の一頓挫だった。ネタジの失望落胆は察するに余りがある。本作戦後のビルマの戦局は氏の心をいよいよ暗くする。彼は東京からビルマ帰還と共に、ビルマ方面に身の置きどころもないような空虚感に襲われてきたのではなかろうか。
 時も時、一九四五年四月二十日、木村ビルマ方面司令官から「ラングーン撤退」を申し入れられる。そのときの氏のショックはどんなものだっただろうか。失望の余り東京亡命を言い出したとしても決して無理はない。しかし大本営は、東京亡命は困る、あくまで寺内さんと一蓮托生だとする。これは日本式発想だ。インド独立は、日本一辺倒とは限らない。「南」と「東京」とに失望したボースに、柔軟な彼独特の構想があっても非難すべきではない。彼の選択肢の中に依然ソ連が存在するならば、先ずソ満国境に向わせていいのではなかろうか。よく話し合えというのが東京の意向だった。
 その他大本営には、ビルマに連絡すべき多くの事がある。そこで急ぎ「南方連絡班」を派遣することになったのであった。しかし、搭乗機の手配は困難で、六月一日立川発は二日に延期され、しかも乗機は練習機となる。福岡では乗機捜しになんと一週間を空費した。私たちはやっと十日に上海に飛び、広東・昭南と乗り継いで十七日にようやくバンコックに着いた。国民軍はすでにタイに後退していた。またビルマ方面の戦局は急追し、英印軍は五月二日ラングーンを占領したので、敵機の跳梁下にタイからビルマには幸じて夜間の潜行が許されるのみとなった。私は一行と別れてタイにとどまることにした。
 そして直ぐにバンコック内の光機関を捜し求めて磯田中将を訪ね、その日にボース氏と対談することができたのは幸いだった。真夜中の十二時から会談は三時間続けられた。氏は東京亡命を固執せず、ソ満国境行きが了承されたのでホッとした。
 だが、結果的には図らずもそのことがボース氏の死につながった。
 私はバンコックで杉田大佐らの帰来を待ち、また帰途昭南で寺内元帥に、ボース氏の亡命予定を報告して、了承を得た。
 南方連絡班は沖縄方面の戦局を案じつつ、嘉義・上海経由で七月二日福岡に、同四日には所沢に帰着した。一カ月に及ぶ生死を度外視した空の旅はここに終わり、無事任務を果たして七月五日総長・次官に、翌六日には大臣局長に復命した。
 私は終戦直後の八月十八日、しかも私ら軍使のマニラ飛行の前日、ボース氏の乗機の事故による死亡を知り愕然、思わずウオッ!と絶叫した。まさに晴天の霹靂だった。氏は亡命のためこの日、南方総軍から関東軍に転任の四手井中将と重爆機に同乗し、昭南から台北経由新京に向った。その途中台北飛行場で離陸直後、一方の発動機がすっ飛んで乗機は墜落した。
 これが一世の英傑ボース氏の最後となる。もしボース氏の東京亡命が実現するか、あるいは私たち南方連絡班がバンコック到着前に遭難し、氏が別の行動に出たとしたらその死は避けられたかもしれない。しかし、「もし」は歴史にタブーだ。それは、歴史そのものが真実だからである。思うにインパール作戦は氏の宿題であり、すべてであった。氏はインパール作戦に全希望を託し、総力を結集した。だが、不幸作戦は失敗した。またインパール後、ビルマの戦局は好転しなかった。彼はソ連にはかない夢を託して、台北飛行場の露と消え去った。余りにも哀れな英雄の末路だった。
 ネタジの遺骨・遺品は、台湾軍の林田少尉が宰領して九月七日陸軍省に着いた。私は霊安所に奉安して翌八日、インド独立連盟東京支部長のラーム・ムールティ氏に引き渡した。彼はインド国民軍の士官候補生を引き連れて陸軍省に出頭した。ボース氏の葬儀は、英・米軍を慮って九月十四日に、内々の関係者の手によって、しめやかに蓮光寺で厳かに執行された。
 なお氏の遺骨は、いまだに祖国インドに帰ることができず中野の蓮光寺に眠る。
(一九九四年十月三十一日記)


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