光機関とインド国民軍 桑原嶽

 光機関とインド国民軍
陸軍少佐・光機関員・インド国民軍第二師団連絡将校 桑原嶽
 光機関とは、日本が戦争中に行った対インド工作の実行機関です。日本軍はいろいろな国に対していろいろな工作をやっています。その工作も、いろいろなルートでやっております。ことインドに関してはすべて光機関一本に絞ってやりました。海軍も外務省も、対インド工作はすべて光機関にやらせるということで了解しておりました。
 藤原機関(F機関)
 一九四一年九月末、参謀総長から藤原岩市少佐に、タイ国に潜入して将来の作戦に関してのインド工作をやれという特命がありました。この、俗に「F機関」と呼ばれた藤原機関が、後の光機関になるものです。F機関のメンバーは将校六名、下士官一名、軍属四名の合計十一名です。この十一名が、開戦直前のタイ国に、外務省の嘱託や商社員に身分を隠して潜入しました。十一名の藤原機関の任務は当初は単にインドだけでなく、マレー人工作、華僑工作、さらにはスマトラ工作までという広いものでした。
 開戦直後のマレー作戦が終了してからこの藤原機関が岩畔機関というものになり、その後一年を経て光機関に変わるわけです。一九四四年一月にこの光機関がインパール作戦の前に南方遊撃隊司令部というものに改編されますが、二十年一月には解散してふたたび光機関に戻るという曲折を経ています。南方遊撃隊司令部は、インパール作戦終了の前後では性格を変えており、一概に「光機関」といっても、五段階の歴史を持っているわけです。
 第一段階の藤原機関は小さな機関で、その性格は戦場謀略、具体的に言えばインド兵の切り崩しです。当時のアジアにおけるイギリス軍は、全体の七〇%がインド人将兵が占めており、そのインド兵を切り崩すことが大きな任務でした。バンコクに藤原機関が潜入した頃のタイは日本とイギリスの秘密戦の部隊で、タイ自身がどちらに付くか分からないような情勢でした。幸いにタイには「インド独立連盟」(IIL)という秘密結社があり、日本大使館付武官の田村大佐と連盟のプリタム・シンの間にコネクションがあり、藤原少佐がこれを引き継ぎ、戦争開始後のインド工作をやる基礎準備をします。
 このようにして始まったマレー作戦では、プリタム・シンが積極的に参加してインド兵の切り崩しをやります。たまたまアロルスターという町を日本軍が占領したとき、英印軍に約一個大隊の集団投降が起きます。アロルスターの町の治安状態が悪かったため、捕虜の中からインド兵を集め、棍棒などを持たせ、町の治安維持に当らせました。この時の指揮官がモハン・シンで、この治安部隊というか、警察部隊がインド国民軍の始まりです。日本軍と行動をともにしていく間に、このモハン・シンが「俺はインド国民軍を作ってインド独立のために戦う」という決意をします。彼はイギリス軍の大尉ですから、その行為はイギリスに対する明白な反逆行為です。さらに新婚早々の妻をインドに残していたため、相当煩悶しますが、ついにインド国民軍を正式に作ることになります。日本軍の山下奉文軍司令官の承認を得、正式にインディアン・ナショナル・アーミー(Indian National Army)が組織されました。
 マレーでは、地形の関係もあって、敵の中央を突破すると後方に多くの敗残兵が残ります。逃げ場のなくなった敗残兵、特にインド兵はこちらの投降工作に応じ、捕虜は雪ダルマ式に増え、それをまた利用するので、マレー作戦における戦場謀略は非常に成功を収めました。シンガポールが陥落したとき、インド兵は約五万人おり、イギリス兵やオーストラリア兵とは隔難して、すべて藤原少佐の管理下に置かれました。このとき藤原少佐、プリタム・シン、モハン・シンの三人が、シンガポールのファラパークという競馬場で大演説をしています。
 岩畔機間
 その後、藤原機関は岩畔機関に発展、解消しました。機関長は岩畔豪雄大佐で、それまでのようなわずかの将校の小さな所帯ではなくなり、非常に規模の大きい組織になりました。岩畔機関が発足した当時は、日本軍がもっとも景気の良いときで、ビルマ戡定作戦が四月にほぼ終わり、海軍の南雲艦隊がセイロンを空襲し、インド洋の制梅権を日本軍が握り、戦線が西に向っており、当時ロンメル将軍の率いるアフリカのドイツ軍が東に進み、両軍がインドで手を結ぶのではと言われるほどでした。
 岩畔機関長の下に、総務班長兼情報班長に牧達夫中佐、政務班長と特務班長には現役の代議士である高岡、小山の各氏、宣伝班長は斉藤中佐、総勢二百名ほどでした。開戦前の岩畔さんは陸軍省軍事課長で、野村吉三郎駐米大使が何とかアメリカと戦争を起こさずにすむようにといった立場で行ったときについていっており、開戦前に帰国し、現実に見たアメリカの強大さを国内でそれとなく話したことから、南方に連隊長として出されました。そのような方ですから政治家や、代議士との交際もあり、政治的手腕のある方です。
 一九三九年に第二次世界大戦が始まると、大英帝国を構成していたインドは自動的に参戦しましたが、第一次世界大戦の苦い経験からガンジーやネールは参戦に非常に反対します。これにかまわずイギリスはインド人を兵士として戦線に送り、インドを兵站基地にする政策を強引に実行し、インド国内は物情が騒然とし、ガンジー、ネールなど、インド独立の志士が次々に投獄されるという状態の中で、インド独立の気運が持ち上がっていました。
 その頃東南アジアには約三百万人のインド人がいたのですが、日本に亡命し「中村屋のボース」として知られていたラス・ビハリ・ボースは、そのインド人を結集するということで、一九四二年四月、アジアのインド独立運動の有力者を集め、後に「山王会談」と呼ばれる会議を開きます。これはインド独立運動を現地のインド人の手でするための準備であり、五月下旬にバンコクで大会があり、そこで正式にインド独立連盟(IIL)ができ、ビハリ・ボースが総裁になります。
 ところが、これがインド人の難しいところなのですが、戦前から神戸や横浜などにいた日本在住インド人と、上海、香港、タイ、マレー、シンガポールなどのインド人の間に確執が起きていました。海外のインド人にしてみれば、日本に長くいて日本の国籍を取ったラス・ビハリ・ボースがIILの総裁になってもどこかに「日本人の傀儡ではないか」という気待ちがあったのでしょう。
 シンガポールの陥落でインド人捕虜は約五万人になり、これをインド国民軍に入れることになります。モハン・シンはインドのデラトンの士官学校を出た正規の陸軍将校ですが、捕虜のなかにモハン・シンより先任の将校が大尉から中佐まで二十人もおり、働きにくいだろうということで岩畔さんがモハン・シンを少将にしてインド国民軍の最高指揮官にします。ところが、ラス・ビハリ・ボースとモハン・シンはあまり仲が好くなく、モハン・シンが「ビハリ・ボースは日本の傀儡だ」と言い、ビハリ・ボースは「モハン・シンは統率力がない」と言うように、さらにぎくしやくするようになります。このような背景でギル事件が起こります。
 インドの名門出身で、イギリス本国の士官学校を出たギル中佐はインド人捕虜のなかで最先任者でした。モハン・シンとの関係を考慮し、岩畔機関長はギル中佐に別班を作り、ビルマで対インド謀報工作をさせます。ところが、ギル中佐の片腕の少佐が工作の途中でインドに逃げ帰り、インドからの逆宣伝に利用され「インド国民軍なんてものは傀儡にすぎない」とか、こちらの内情をデリー放送で暴露する事件が起こります。以前からギルは敵に通じているという憲兵の情報があり、ついに岩畔大佐はギル中佐を憲兵隊に引き渡し、彼は終戦まで監禁されてしまいます。これがギル事件です。
 この事件が大きなきっかけでモハン・シンがおかしくなり、ビハリ・ボースとの間もうまく行かなくなって、モハン・シンは一九四二年の暮に国民軍最高指令官を解職され、大尉に戻されます。インド国民軍は、形式的にはインド独立連盟の下にあり、総裁のビハリ・ボースが解職する形ですが、実際は岩畔機関長が言い渡し、モハン・シンは終戦までシンガポールの近くの小さな島で軟禁状態に置かれることになります。このモハン・シン事件でインド国民軍が非常に動揺し、一時は反乱を起こすのではないかと言われるまでになります。当時の岩畔機関の軍事班長小川少佐などの努力で国民軍を納得させ、イギリスの正規の士官学校を出た、人望の厚いボンスレー少佐を長にして国民軍の再建が図られ、国民軍は一応のまとまりがつきました。しかしボンスレー少佐は生粋の軍人であり、「インド国民軍は今のままではダメだ。自分ではどうにもならないから、ドイツにいるスバス・チャンドラ・ボースを呼んでくれ。彼が来ればまとまるだろう」と主張し、ドイツからチャンドラ・ボースを呼ぶ計画が本格化します。
 光機間から南方軍遊撃隊指令部へ
 このモハン・シン事件の後、岩畔大佐は第二十五軍の軍政部長に転任し、後任にはドイツの日本大使館武官補佐官で、スバス・チャンドラ・ボースと面識もあった山本敏大佐が着任し、機関の名前も「光機関」というようになります。チャンドラ・ボースが一九四三年五月、ドイツの潜水艦から日本の潜水艦に乗り移り、スマトラ北郡に上陸したチャンドラ・ボースを山本大佐が迎え、いったん東京に行き、ビルマに戻ります。そして七月にチャンドラ・ボースがビハリ・ボースからインド独立連盟(IIL)の総裁を引継ぎ、同時に自由インド仮政府を組織して首席に就任し、インド国民軍(INA)の最高指揮官となります。それまで曖味だったインド独立連盟とインド国民軍の関係が、チャンドラ・ボースが政府も含めた三つの組織の長を兼ねることで、完全に一本化されたわけです。
 インド独立運動において重要な役割を果たした国民会議派のなかで、ガンジー、ネール、チャンドラ・ボースは三巨頭ですが、インド独立を目指すことでは一致していましたが、その手段は異なっていました。ガンジー、ネールは不服従、非暴力による運動で独立運動を闘おうとしましたが、チャンドラ・ボースは武器を手に力で独立を勝ち取ろうとしました。チャンドラ・ボースをドイツからアジアに移すことは政治工作の大きな成功でした。そしてチャンドラ・ボースがIIL、臨時政府、INAを把握すると、インド国内における活動と政治力に自信があったのでしょう、「自分が武力でインドに入ればインドの独立はたちどころにできる」と考え、武力闘争に自信を持ち、当時の東条首相に「インド進攻作戦をやってくれ」と働きかけるようになります。このような背景があり、日本軍のインドに対する方針が軍事工作中心へと変わります。それを実際に行なった機関が光機関であり、南方遊撃隊司令部です。
 一九四三年の秋頃、日本軍のなかに遊撃戦の思想が重視されるようになり、日本軍の戦う各地で遊撃部隊が編成され、ビルマにもつくられます。しかし、当時のビルマ国内は治安が良く、ビルマ国内で遊撃戦をする必要はありません。インド進攻作戦の際に、インド国民軍をビルマからインド国内に入れて遊撃戦を担当させるという考え方が生まれ、それを支援する役割を果たすために南方軍遊撃隊指令部が生まれます。ですから南方軍遊撃隊司令部は自前の部隊を持たず、遊撃戦はインド国民軍がする形です。
 司令官には、INAの最高司令官チャンドラ・ボースの相手としてふさわしい将軍として磯田三郎中将が任命されます。磯田中将は開戦時にアメリカ大使館付武官として野村吉三郎大使を直接補佐され、長い外国勤務を買われたのです。司令部には、幕僚部として参謀部、副官部が、実行機関として軍事部と政治部があり、参謀長はなく、高級参謀には光機関長だった山本大佐が就任します。南方軍遊撃隊司令部の役割はインド国民軍の遊撃戦の指導ですから、その実行を担当する軍事部が主体になります。軍事部長は北部大佐で、従来の光機間の要員だけでは足りませんから中園大佐、満州方面から中野学校出身者や一般の将校下士官が多数集められます。総勢五百名という膨大な機関です。当初の構想は、インドのマニプール州の首都インパールを占領し、自由インド板政府をそこに進め、INAの基地として、インド内に遊撃戦を展開していくというものでした。


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