アカデミーと再度の訪印に際して 一九六〇年四月十八日 江守喜久子

 不思議なご縁と申しましょうか、一介の主婦である私が「スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー」の副会長に推されて発足三年目を迎えて、再度インドを訪れることになりました。
 私とインドとのつながりは、偶然といえば偶然、戦時中、明治神宮の鳥居のそばで、通りすがりの兵隊さんにお茶を接待したことがあります。このことは新聞にも度々出ましたが、当時、日本に身を寄せていた親日派の印度留学生たちと知り合ったのも、お茶の接待がきっかけでした。
 彼等は何れも印度の独立と祖国愛に燃えていたのですが、日本の敗戦とともにその夢も崩れ、連合軍の日本占領によって罪もないこれらの留学生たちが銃殺刑に処せられるという噂が広がりました。
 私は驚いて、早速官庁に奔走し、嘆願運動を続け、印度留学生を家近くのアパートに収容してお世話をすることにしたのです。四十五名の異国の青少年(十六歳から二十三歳)のお世話をするということは、食糧事情の困難な折とて、並大抵のことではありませんでした。
 終戦となった日より、十一月三日、彼等を印度に帰還させるまで、当時の苦しい社会情勢を考えると、よくもそれに耐えられたと我ながら驚くばかりです。民族を超えての人間愛というか、とにかく、この若人たちを救わなければならないという、一途の信念であったという気もいたします。
 ボースさんの御遺骨が密かに東京のサハイさんのお宅に運び込まれ、人知れず、ささやかな供養が営まれたのもそのころです。当時の情勢から私は供養に加わることは遠慮すべきであると思い、蔭から先生の冥福を祈りました。ところが供養が終わってから、留学生たちは口々に「おばさん、ネタジは僕たちの希望と光でした。どうかネタジの供養を続けてやって下さい。お願いです」というのです。
 印度の若い知識層は、ネタジに対してどのような共感と尊敬を寄せていたか、この若き情熱には、切々と胸に迫るものがありました。以来、この印度の偉大な志士、ネタジの気高い魂の眠る蓮光寺への墓参と供養は、今日まで続けさせていただいております。
 一昨年(一九五八年)の十月のこと、ネール首相の来日の時、留学生のダーサンという方と、ネタジの甥のアミヤナツ・ボースさんが来られて、
 「印度にはサラト・ボース・アカデミーという会があります。日本にもこれと同じ会が発足して、日印間の文化的結びつきができれば、こんな喜ばしいことはないのだが・・・」という懇請の意味の言葉がありました。
 そこで私は、故人と特に関係の深かった渋沢敬三先生、大島浩先生、河辺正三先生、岩畔豪雄先生方と御相談し、早速御同意を得て、ネタジの誕生日に当たる一月二十三日に「ネタジを偲ぶ会」を催す運びとなったのであります。
 五十数名の方々とその席上での相談の結果、全員賛成、ここに「スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー」の発足を見るに至りました。
 この会はネタジに縁故の深い方々の集まりで、ネタジの高潔な人格を通して、日印間の文化的、精神的な交流を来かめることを目的にしたものであります。
 ささやかな会合で、まだ事業らしい事業もしていませんが、ネタジの御遺骨を国家管理に移すこと、身命を抛って祖国の独立のためにつくされたボース先生を思うとき、一日も早く先生があんなに愛された祖国の土に、御遺骨を埋めて差し上げたいと切に思わずにはいられません。
 それから、八月十八日の御命日には法事を営むこと、一月二十三日の誕生日に「ネタジを偲ぶ会」を催すこと、ネタジに関する資料を集めることなどに微力を尽くしています。
 昨年、私はマミヤナツ・ボース氏の御招待を受け、会議出席後かつての留学生たちを訪問して、一
カ月ばかり印度の各地を旅行しました。初めて接するカルカッタ、ボンベイ、ニューデリー、アジャンタ、タジマハール、プナの士官学校など一人旅の私を心から迎えてくれました。わけても若いころからの憧れであったアジャンタへの旅が、こうしたいきさつから実現しようとは想像もできないことでした。
 何年かぶりで出逢ったかつての留学生たちは私を歓迎ぜめにして、涙の出るような感激でした。
 特に印象が深かったのは、先生が起居されていた部屋が、印度独立のため旅立たれた、その日のままの姿で残っていることでした。きちんと整頓されたベッドにも書棚にも、また平素の通り置かれてある靴、スリッパにも、先生在りし日の香りが染み込んでいるようで、薄暗い部屋ではありましたが、先生の生前の静かで清らかな日常が偲ばれて、一世の英傑の末路と思い合わせて一抹の哀愁を覚えるのでした。この建物は今では、図書館、資料室などに利用されて、先生の遺徳を偲ぶよすがとなっています。
 印度旅行中に、サトラ・ボース・アデミーからネタジ会館設立援助について懇請がありました。先生はカルカッタに住まわれるようになったときから、この土地を国民的な霊場として、公的な慈善事業に利用することを祈願しておられたようです。
 独立運動のため、潜行万里の苦難の旅につかれたのも、このカルカッタからです。先生にとってゆかりのある土地に、ネタジ会館が建立されることはまことに意義の深いことと思います。
 現在この建物のある土地は、ボース氏の兄上の所有でありますが、会館建設のために提供されることになっております。この会館から生ずる収入は、ネタジ・バワン霊場の維持、サラト・ボース学院、アザド・ヒンド病院車サービス、ネタジ研究所の諸経費にあてるため、寄付することになっています。
 複雑な印度政情とはいえ、かつえは同盟国に指導者であられ、高潔なる人格者であった先生を崇拝するあまり、私は四月十九日、日本を出発して、再度印度、セイロンへ旅立ちます。
 この旅行の目的は、もちろんインド政府に先生の御遺骨を速やかにお迎えしてほしいと懇願するためです。またネタジ会館設立の寄付金についても特に相談してきたいと思っています。セイロンの留学生やかつての四十五人のあの人たちの幾人かと逢うのも、私の心に秘めた喜びの一つでありますが・・・。出発に前夜四月十八日しるす。
一九六〇年五月七日 スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー発行「ネタジ」掲載


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