はじめに

ネタジと日本人

     ネタジ・スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー
                     事務長 林 正夫
 指導者という意味の「ネタジ」と尊称されたインド独立の志士スバス・チャンドラ・ボースに関する本は数多く出版されている。しかしその大部分は、ボースがインド独立に向って活躍した輝かしい時代を扱い、終戦直後に台北の松山空港で起きた悲しむべき飛行機事故により悲惨な最後を遂げてからのことは述べられていない。臨終のことを書いた文章に、ボースがカレーライスを食べた等、とんでもないことが書かれていることもあった。
 事故後、台湾の日本軍司令部から東京の参謀本部へ、そしてインド独立連盟のラマ・ムルティ氏たちに手渡された遺骨は、敗戦直後の複雑な世相に恐れをなしたどのお寺からも収容を拒否されたが、杉並の蓮光寺の先代住職望月教栄師に命懸けで預かっていただいたまま、今日に至っている。日本と共に戦い、しかも戦局が破綻する最後まで、その固い信念を変えることなく、われわれと行動を共にしたネタジの遺骨はいまだに祖国に還えることなく五十年が経過したのである。
 一九五六年に、インド国民軍(INA)の第一師団長だったシャヌワーズ・カーン氏を団長に、アンダマン・ニコバルの司政官を務めたマリク氏、ネタジの実兄スレス・ボース氏を委員とする第一回死因調査団が来日した。調査団はわざわざ台湾に飛び、さらに事故当時、治療の指揮をとった吉見胤義軍医以下、必死になって看護にあたった人たちにも会い、真相の解明に努力した結果、スバス・チャンドラ・ボースの死を認めたのであった。特に団長は「帰国したら飛行機か巡洋艦でご遺骨をお迎えに来ます」といって、関係者を喜ばせたのである。
 しかしこの調査団を羽田空港に見送りに行ったその日、岩畔豪雄氏と私に向い、実兄のスレス氏が急に「ネタジは死んでいない」と言い出したのには唖然とするほかはなかった。怒ったシャヌワーズ・カーン団長とマリク氏は我々に別れを告げ、先に階段を降りていったが、スレス氏は飛行機の出発時間ぎりぎりまでひとり残り「死んでいない」と言い張っていた。
 こうした実兄の発言は肉親の情や複雑なインド国内事情を反映したものなのだろう。その後、第二、第三の調査団が派遣されてきたが、結局、結論の出ないままであり、ネタジのご遺骨返還の吉報を待つ我々の期待は薄れていったのである。
 偉大なネタジを知る同士が相い集まりスバス・チャンドラ・ボース・アカデミーが結集されてからも四十数年がすぎさっている。創立以来、アカデミーでは遺骨返還を願って日印両国に手を尽くしてきた。特に第二代会長江守喜久子女史は、熱意と真心からわざわざインドに渡る努力もされたが目的を達成することができなかった。第三代の会長片倉衷氏も同様に努力されていたが一九九一年に逝去された。九十四歳の高齢であった。他のメンバーもほとんど高齢者ばかりである。蓮光寺とアカデミーの固い絆により、毎年ボースの誕生日会と命日に慰霊祭を行ってきた。
 世の中の移り変わりと共にチャンドラ・ボースの名前を知らない人が多く、「中村屋のボース」と言われた同姓のラス・ベハリ・ボースと混同されている方も少なくない。ネタジの死後十五年にあたり、たまたま江守喜久子女史の次女松島和子さんから、母堂のご遺志を継ぎボースの永代供養をという申し出をいただき、蓮光寺の望月住職のご了解を得て、一九九〇年、境内にネタジの胸像が建立された。
 さらに松島さんのご厚意により永代供養を行うにあたり、ネタジ・スバス・チャンドラ・ボースを知らない人々に、インド独立にかけたネタジの生涯を紹介するとともに、多くはアカデミーに参集したネタジに関わった日本人の記録を「ネタジと日本人」と題して残すことができた。その後五年を経て、蓮光寺に寄贈した本も慰霊祭に参加した多くの人々に渡らなくなったので、ネタジの五十回忌を終わるにあたり、再び松島さんから「改訂増補版」を新たに作成して蓮光寺に寄贈したいとの有難い申し出があり、戦後五十年の記念として新たな編集企画をインド国民軍の指導将校であった縁で村田克巳氏に依嘱して作製することにした。
 ネタジの霊の安らかならんことを祈り、日本とインド両国の友好のきずなとなれば幸いである。
      一九九五年八月十八日 ネタジの五十年祭にあたって


Parse error: syntax error, unexpected ';', expecting ',' or ')' in /home/yorozubp/yorozubp.com/public_html/netaji/wp-content/themes/magazine-news/comments.php on line 44