|
ビッグ・リンカー達の宴2−最新日本政財界地図(7)
2004年07月14日(水)
萬晩報通信員 園田 義明
|
■今日の国際文化会館
最近の新聞紙上に松本重治が永きにわたってオヤジを務めた国際文化会館に関する記事が取り上げられている。立て替えをめぐる賛否が話題になっているからだ。
国から払い下げを受けた約1万平方メートルの旧岩崎弥太郎邸跡地に建てられた国際文化会館(港区六本木)は日本現代建築史における巨匠三人(前川国男、坂倉準三、吉村順三)の共同設計で1955年に完成している。都心にありながら緑豊かな環境を保持してきた日本庭園(小川治兵衛作庭、後藤由末改修)と一体化した建物は56年に日本建築学会作品賞を受賞するなど名建築として知られてきた。76年に新館を増築し、会議室や講堂、研究用宿泊施設、日本研究の専門図書館を備え、国際文化交流の拠点として多くの外国人に愛され、「Iハウス」の名前で親しまれてきた。
しかし、老朽化した建物の維持管理にコストがかかる上、宿泊施設の半数に風呂とトイレがなく、部屋の利用率はこの10年で65%まで落ち込むことになる。また、年間2億円あった寄付も不況の影響で1億3千万円に減少し、同会館を運営する財団法人国際文化会館の財政は2億円弱の赤字(03年度)となっている。
このため同財団は今年3月に建て替えに理解を求める手紙を会員に送り、6月22日に開かれた理事会・評議員会で、土地の一部と空中権を森ビルに売却する方針を固めている。また売却費用を元に建て替え計画も動き始めており、庭はほぼ現状保存しながら、施設は現状に近い低層にすることなどが報告された。
これに対して日本建築学会、日本建築家協会、学者や建築家らが設立した「国際文化会館21世紀の会」などから保存を求める要望が出されており、同財団は今後も意見を聞く方針を打ち出している。
なお売却先として名前があがっている森ビルの創業者で、世界的な資産家としても知られた森泰吉郎(1904−93)と松本重治の出会いは、「世界政治経済年鑑」を発行していた東京政治経済研究所が設立された1932年頃までさかのぼることができる。
■現在の「宿屋(国際文化会館)のオヤジ」と三菱
現在の国際文化会館の役員名簿には、「首相を囲む会」から小林(理事)、茂木(理事)が参加し、松本重治の長男である松本洋も常勤専務理事となっている。なお評議員には樋口廣太郎(アサヒビール元会長、現相談役)の名前があるが、樋口もカトリック信者である。そして、現在の「宿屋(国際文化会館)のオヤジ」、即ち国際文化会館の理事長は「タダシ・テディ・ベア」の周りでボール遊びをしていた東京銀行元頭取の高垣佑(現・信越化学工業監査役)である。つまり、松本重治、そして信州の名門・小坂財閥につながる山本正と高垣佑は、国際文化会館を拠点に合流していることになる。
高垣佑は1946年に東京銀行に入行し、国際投資部長、企画室長を経て、79年に取締役に就任、ロンドン総支配人を経験しながら、90年に頭取となる。96年には三菱銀行と合併して誕生した東京三菱銀行の初代頭取となり、98年に会長、00年に相談役に退くことになる。現在は信越化学工業監査役の他に三菱プレシジョンの監査役や外務省の諮問機関である外務人事審議会会長、ロシア東欧貿易会会長などを務めている。
東京銀行と三菱銀行の合併は当時「スーパーバンク」誕生と騒がれたが、この合併の裏側には高垣人脈が大きく関係していた。というのも、高垣佑の父親である高垣勝次郎は三菱商事の終戦時の社長であり、戦後連合国軍総司令部(GHQ)に解体された三菱商事の再合同劇を演出し、戦後最初の社長も務めていたからだ。この関係から、高垣の東京銀行頭取就任直後に両行の接触が始まっていたのである。
高垣佑は高垣勝次郎の三菱商事の関係で上海、香港、ロンドンを移り住んだ経歴を持つ。その上海の日本人小学校で「タダシ・テディ・ベア」こと山本正の山本家と一緒にボール遊びをし、中村貞子(現在の緒方貞子)とも出会うことになる。
■槙原稔と聖公会司教
この高垣勝次郎のライバルであったのが、槙原稔(元三菱商事会長、現取締役相談役)の父、槙原覚であった。ここからは、朝日新聞に掲載された「槙原稔・三菱商事会長 内からの国際化」から槙原の発言を紹介したい。
『私(=槙原稔、注)は1930年、三菱商事ロンドン支店に勤める父覚(さとる)、母治子の長男として、ロンドン西北部、ハムステッドに生まれました。一人っ子でした。(中略)父はロンドン支店で、戦後最初の社長となる高垣勝次郎さんと並んで昇進していきました。父には大変かわいがってもらいましたが、仕事が忙しく、なかなか家でゆっくりしていることはなかったようです。その父が亡くなったのは、私が小学校6年生だった42年の、いわゆる「大洋丸事件」です。当時、父はロンドン支店から東京に戻って水産部長をしていましたが、軍の依頼で、南方の占領地の立て直しに向かう途中、乗っていた大型客船が撃沈されたのです。1300人以上の乗員乗客のうち、約800人が死亡する大惨事でしたが、軍の方針でほとんど報道されませんでした。』
そして、興味深い発言が続く。
『その後、亡くなった父が三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎の長男・久弥(ひさや)氏から奨学金を受けていた関係や、私が久弥氏の孫の寛弥(ひろや)君と成蹊高校の同級で親しかったこともあって、私たち母子は、久弥氏の長男の彦弥太(ひこやた)さんの国分寺の別邸に移り住みました。戦後、その岩崎邸の母屋がキリスト教の聖公会に接収され、そこで、ハーバード大出身のケネス・バイエルという司教と出会いました。私がマッカーサー杯の英語弁論大会に二回優勝したのを機に、司教から「ハーバード大に行く気はないか」と聞かれました。彼は「私が口をきけるセントポール高校(ニューハンプシャー州)へ行って、そこそこの成績を修めれば、ハーバードにいくチャンスはある。どうだ」と。で、行こうと。あのころの日本は、終戦直後のごたごたで、下山事件や三鷹事件など不穏な事件が多く、一番悪い時代でした。夢を抱く人は皆、チャンスがあれば米国へ行きたいと考えたと思いますよ。一人残される母が賛成してくれたことにも感謝しています。』
■日本の戦後と日本聖公会
この発言に出てくる「国分寺の別邸」とは現在の「殿ヶ谷戸庭園」であり、「岩崎邸の母屋」とは東京都台東区池之端にある「旧岩崎邸庭園」で知られる岩崎家本邸のことを指している。
三菱財閥の第3代当主、岩崎久弥(1865−1955)の私邸であった「旧岩崎邸庭園」は2001年から一般公開されており、英国人建築家ジョサイア・コンドルが設計した洋館と撞球室、大河喜十郎が手掛けたと伝えられている和館の一部を見学することができる。
この旧岩崎邸庭園は、戦後、GHQに接収され、主に岩崎家のゲストハウスとして使われていた洋館は、GHQ参謀2部(G2)の秘密工作機関である合同特殊工作委員会(JSOB)の傘下にあったキャノン機関の活動拠点として「本郷ハウス」と呼ばれていた時期がある。このキャノン機関はプロレタリア作家の鹿地亘をソ連のスパイとして監禁したことがあるが、その監禁場所は洋館の二階の部屋だったとする説と地下室だったとする説がある。
そして、槙原稔の発言にあるように聖公会もここを使用していたことは間違いないようだ。「旧岩崎邸庭園」側の話として聖公会は和館に入っていたとの情報があった。このことに触れた文献が極めて少ない中で槙原の発言はそれを裏付けるものとなっている
国際文化会館も岩崎弥太郎邸跡地に建てられている。そして、現在の国際文化会館の理事長は親子二代にわたって三菱グループに関わってきた高垣佑である。そして、つい最近まで世界的なビッグ・リンカーであり、今なお三菱グループ内のビッグ・リンカーを務める槙原稔は聖公会司教との出会いが人生を変え、宿屋の元祖オヤジである松本重治は日本聖公会の東京聖三一教会で人生を終えた。
世界を見渡せば、イラク戦争でブッシュ大統領と行動を共にした英ブレア首相は日本聖公会が属する英国国教会の信者で、シェリー夫人は敬虔なカトリック教徒である。そもそも16世紀に英国国教会が独立したのは、当時のローマ法王クレメンス7世がヘンリー8世の離婚を認めなかったのがきっかけである。これまでに何度も歴史的な和解が試されてきたが、イラク戦争はまたしても両教会を遠ざけたようだ。この背景にはカトリックと英国国教会の信徒達を中心に再建されたフリーメーソンとの永く続く対立の歴史も存在しているのかもしれない。あるいは神から遣わされたピューリタンの戦士、オリヴァ・クロムウェルの魂が今なお生きているのだろうか。
槙原が通ったのがセントポール高校、日本にもセントポールズ・ユニバーシティが存在する。それは立教大学である。日本聖公会は立教大学、 立教女学院、 桃山学院、 神戸松蔭女子学院大学、 プール学院や聖路加病院などの教育・医療・福祉事業を手掛けてきた。この日本聖公会の基礎を築いて「中興の祖師」と呼ばれた八代斌助は、「世界のヤシロ」として知られ、エキュメニカル運動に貢献した。
終戦直後、昭和天皇をお守りするかのように第一世代と第二世代のキリスト教人脈が集い、後にその多くが国際文化会館の設立に関わっている。彼らが最初に向き合うことになる人物がサングラスにコーンパイプをくわえて厚木飛行場に降り立つ。その最初の人物とは、聖公会信徒であり、フリーメーソンの熱心なメンバーとして知られ、権力を生かして戦後の日本聖公会の発展に貢献した、ダグラス・マッカーサー元帥である。
□引用・参考
・国際文化会館の建て替え関連記事
国際文化会館「保存を」 日本建築学会などが要望書
2004年6月29日付朝日新聞朝刊
「国際文化会館」建て替えへ
名建築、苦渋の土地切り売り/東京・港区
2004年6月23日付読売新聞朝刊
・森ビル社長森泰吉郎氏(11)経済史論専攻(私の履歴書)
1991年11月12日付日本経済新聞朝刊
・槙原稔・三菱商事会長 内からの国際化
1999年1月9日付け朝日新聞夕刊
・キャノン機関並びに鹿地亘の監禁場所=洋館の二階部屋説は下記参照
この本の冒頭にはマッカーサー・フリーメーソン説も書かれている。
秘密のファイル 上・下 春名幹男 (著) 共同通信社
・鹿地亘の監禁場所=洋館の地下部屋説については下記参照
『小社会』
2004年5月22日付高知新聞朝刊
・マッカーサー元帥が聖公会信徒だったことについては下記参照
よくわかる聖公会(1)
1996年11月1日付産経新聞夕刊
ひと95 永田秀郎さん
1995年2月22日北海道新聞朝刊
園田さんにメール mailto:yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp
トップへ |
(C) 1998-2004 HAB Research & Brothers and/or its suppliers.
All rights
reserved.
|