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『ラスト・サムライ』、私たちの2つの物語
2004年02月13日(金)
トロント在住 川上 直子
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こんな風に定説化してゆくのだろうか?。話題の映画『ラスト・サムライ』を見て私がまっさきに考えたことはそれだった。明治維新について、私たちは長い間奇妙なほどに距離のある二つのストーリー、あるいは印象に馴らされている。当時の国際状況から導き出される英仏の、殊に前者の東洋での活躍あるいは暗躍の中で捉えられるローカルな出来事としての政体変更と、オールキャストすべからく日本人、日本人の日本人による日本人のための維新の物語だ。
『ラスト・サムライ』は、この分離状況に対して、決して説得的な解釈を提示しているわけではない。しかも、この映画は、私たちにしてみれば、唐突以上に、まず最初に鼻白むことを超えなければなかなかストーリーに入って行けないような形でアメリカ人が登場し、その上、全体が過剰なほどの「日本趣味」で飾り立てられ、少しでも現在の日本や日本の歴史について知識のある人ならば(別に日本人でなくとも)、容易にフィクションが過ぎることがわかる仕立てになっている。すべてが過剰なまでにフィクションめいていると言ってもいいかもしれない。
しかしながら、ともあれこの物語は、上述の二つが組み合わさったストーリーを提示している。同時に、ではなぜ二つの物語は今の今まで、いや、今でさえも交わることなく来たのだったかを暗々裏に示してもいる?日本人の手によってなされてはいない、そこにあるべきものが「ない」ことによって。ということは、私たちは自分で描くことのできなかった「自画像」を頭ごなしに貼付けられているとも言える。
そんなことを−つまるところ批判的に考えさせられる第一の理由は、まずなんといっても、誰でもすぐ気がつくように、明治維新という事件が、ネイティブ・アメリカンと移入してきたアメリカ人の関係の相似の中で語られていることだ。
オオムラに代表される新政府が、カツモトに代表されるサムライを葬り去るという構図そのものは、明治維新の基本線である。それを、前者に近代、西洋あるいは物質を、後者に伝統あるいは精神を見るというのもある程度はあたっているかもしれない。しかし、どんな解釈を取ろうとも、これは内戦であり、もっと正確には幾つかの内戦を包含した政変、革命である。どれだけアメリカの兵器が登場しようとも、もしかしたらすべてはイギリスのお膳立ての上に乗ったものであろうとも、内戦は内戦、政変は政変であり、厳密には国内の問題、日本人の問題、日本という単位に代置不可能な起点を求める人、つまりアイデンティティをそこに見いだす人にとっての問題だ。
しかしこの映画では、この構図に対して、過去を引きずるアメリカ人のオールグレンを登場させることで、全体として、アメリカ人vsネイティブ・アメリカンの構図が色濃く投影されている。
ここで、伝統vs近代(というより西洋と言うべきだが)、あるいは精神vs物質という補助線を引くと、サムライとネイティブ・アメリカンは同じグループに、明治政府とアメリカ人は同じグループに分類される。
私はこれが適切な見取りだとは思えない。虐げられた人びととその反対、要するに弾圧、抑圧等々の側を分離して、後者に対して国境を超え、枠を超えてた支援を、同情を、前者には非難をと考える自由はあるし、一般論としてこれに対して文句のある人はいない。しかし、それは過去に向かって投影されるべきものではない。過去を現在の価値で解釈してみることは全く問題なく自由に行われるべきものだが、それを裁くことは誤りだし、そうせざるを得ない状況をつくり出すのはさらに誤りだろうと私は考える。
そう書くと表現することと裁くことにどんな差異があるのだと考える人もいるだろう。これは監督が持った見解であって、どう見るかは観客次第し、文句なくそうなっているではないかと。それはそうかもしれない。しかし、実質的に、人びとはそんなに「矯め」を作って見ることが可能なほどにこの話を知っているのだろうか? もし知らないのだとしたら、多分表現を受け止めることと裁くことを区分するのは難しい。「感情移入」によって無意識のうちに引かれる線を乗り越えるには知識と別の体験が必要だ。
そう考えてくれば、映画を見てサムライに無条件に感情を移入する人が、オオムラに代表される側を、心理的、精神的、つまり個人の倫理によって、まったくの無自覚に裁いてしまう構図をここに見て取ることはそれほど考え過ぎでもないだろう。人間的で大変に結構な話だと言いたくなるほどに明らかに、ほがらかに、人びとは裁いていないだろうか。サムライは正しいと、憎むべきは外国勢に篭絡させられた人びとならいざ知らず、近代であり、そうして西洋であると。しかし、これは、現実にとってフェアなことだろうか?
日本の明治維新政府は、これによって本来かけられる必要のない嫌疑がかかっている。明治政府がどれだけ悪逆非道であったとしても、アメリカ人とネイティブ・アメリカンの話と相似ではないのにもかかわらず、不用意な鑑賞者の善意はその線を、見分けるべき線を持ってはいないかもしれないのだ。
私たちは日本人は、冒頭のように二つの別の話にしたままこの話に決着はつけてはいないから、非常にしばしば取り上げられるネタであるにもかかわらず、それはいつもどこかわかりにくいままだった。だから、老若男女を問わず、この新しい「舶来」モノに抵抗できるだけの知識や見解を持つ人が多いとはあまり期待できない。さらに悪いことには、この映画の本国たるアメリカは、イギリスの革命の産物ではあっても、自国内で革命規模の政変を体験したことはない。同じその地で、裏切りと不信と反動と曖昧さと慚愧とを合わせ持たなければならない歴史を持ってはいない。だから、どれだけ知識や論理立ての素晴らしい人であっても、歴史ある国々からきた人びとのように、背後や背景を読み取りながら、感じ取りながら、つまり善悪を一般化できないことに対する一種のもどかしさを体験値として持たない、持ち得ない人は、遺憾ながら少なしとはしないと私は観察している。
くどいようだが、相似ではないと言っても、それはなにも非道さにおいて差異があるというのではない。どちらがよりマシかといった話ではない。明治維新は厳密に国内の革命であり、他者の土地に出かけて行って他者をなぎ倒したという話ではない。私がどうしても譲るべきではないと考えるのはこの一点であり、もし私たちが歴史認識のはっきりしたリーダーを?私たちの国の仕組みでいえば首相ということになろうが?持っているのなら、彼彼女の仕事は、サムライを伝統モノとして無邪気に喜ぶようなことのはずはなく、この映画によってもたらされた構図を指摘することであり、それにもかかわらず自らの国を背負っていると人びとに伝えることだっただろう。
無論この政権は、その後になって、北海道で、アジアの各地で悪行をしでかしたとも考え得るが、例えそれらを一つ残らずまとめて認めたとしても、この時点にあってそれは全く関係がない。それは明治政府が背負った宿命でもなんでもない。戊辰戦争で城を壊され、西南戦争で賊軍の汚名を着せられた側であっても、つまりあらゆる意味であのサムライよりもさらに現実的に長く不利益を被り名誉を傷つけられた側であっても、アメリアのインディアンとの相似には驚くばかりであろう。どうあれ「みんな」のためにと思って仕方なく引き下がったであろう無数の人びとのいたことを無視するべきではない(私はこれを日本のためにとは言わない。当時に多くの人びとにとって、むしろそれはもっと身近な人びと、藩、共同体のためであっただろうし、今でも日本とはその延長上にある
だろうから、ここで日本のためにと考えるのは空疎でさえある。
蛇足ながら、私は、城を失った方に根を持つものだから、西南諸藩が作り上げた明治維新についての言論一般に関していえばどうにもおかしなものを感じ続けていた側にある。が、それでも、これでいいとは思われない。
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私たちの現在は、西洋化westernizationを近代化と呼び、同じ手続きで、アメリカ的な解釈や文物を受け入れることを民主主義あるいは自由主義と呼び習わして来たその延長上にある。
つまり、私たちは、この映画でいうなら、明らかに、否応無しに、明治陸軍のオオムラの側にある。それを形だけと言おうが建前と言おうが、心は許さじと言おうが、私たちは着物を脱いでちょんまげを落としたその後に続いている以上、それはどうあれ西洋化がインストールされた後の姿である。しかも、あろうことか、私たちはそのようにして成ったものを「日本」と呼び習わしている可能性もある。
いや日本とはもっと太古の昔から続くそれであると考える自由はあるし、もし可能ならそのような日本を我がものと捉える思考を穏やかに着地させることが、今後の日本にとって最も望ましいと私は考える。
しかし、例えば、日本文学、日本画、伝統芸能と呼ばれるものが決して明治維新よりは遡らない、その意味でこうした文物はこの時点で「擬古典」のように整備されたのだと考えざるを得ないこと、そしてそのことが明らかにされず、むしろ擬古典をそのままにしておくことことが「愛国的」であるかのような倒錯した事情が看取される現在を鑑みれば、現在の私たちにとっての「日本」とはオオムラの側にあって急速に整備されたものであるか、少なくとも、包含していると考えることは妥当だろうと思う。そしてそれをこれまでのところ上手く咀嚼して表現できずにいる。
そもそも「日本語」の成立でさえオオムラに象徴されるものの到来なくしては、あり得ないとは言わないが、もっと他の事情なくしては、成立の契機がなかっただろう。
だから、少なくとも「日本」とは私たちにとって両義的であり得、そのうちの一つは明らかにオオムラ的なるものの邂逅なくしては成り立たないかもしれないと考えるのは妥当なことだろうと私は考える。
言い換えれば、近代化のためにwestを受け入れたと考えることは可能だとしても、その時それを受容する「日本」は果たしてそこにあったのかということだ。
ということは、日本人にとって、西洋を断罪することは、常に我が身を切り落とす行為にさえなり得る。西洋は「他者」ではないのだ。しかしそうは考えたくはないから、橋頭堡として「精神」を立て、あるいは、和魂洋才という便法で調和を試みて来た。
この調和が成り立つためには、肉体に対置する精神を心、あるいは魂と呼びかえ、それを思考のことだとは決して捉えないという条件が付く。精神がマインドであればそれは思考であり頭脳なのだから、それは肉体を介して自己の行動へと結びつく。その意味で我が身の行動を規制する側に回るはずであり、その意味で言い訳ができない。が、心あるいは魂であるとすることで、身との切り離しを?それこそ思考の上で?成立させている。和魂洋才は、容易に、物質と精神へと反訳される。
だから、一足飛びに「精神」の側に、すなわちオオムラを否定し、サムライであるカツモトへと自己を同化させる行為は(あの映画を見れば誰でも普通そうなるわけだが)、実際には既に物質であり、肉体であり、価値の基準系として西洋を包括していることを忘却させる。忘却するからこそ、昔人びとは、精神主義なるものへと傾斜することができた。
オールグレンは、ネイティブとの戦いで引き裂かれた自己を、日本という異地で高貴なるサムライを助けることで、その志を、なんならスピリットを引き継ぐことで、自らの身体を使ってそう行為することで癒されたであろう。それは、オールグレンに自己を同化させるアメリカの観客すべてにとっての癒しである。一方で、日本人にとってそれは癒しにはならない。オールグレンに手渡された刀を、私たちはまだどこに仕舞い込めばいいのか、飾ったらいいのか、隠したらいいのか、誓いを立て祈りの役に立てたらいいのか、まだ何も言い表すことが?パブリックにすることができてはいないのだから。
私には今のところこの映画は、アメリカの癒しのために日本は今後また「精神」を発揮することになる、その暗示のようにさえ見える。しかしもしそうしたくないのなら、私たちは自画像を自分で描かなければならない。たとえそれが著しく億劫で、なにかしらの動揺を引き連れるものだとしても。
日本の魂も日本の精神もそれ自体として、所与の前提のように存在するわけではない。高貴なスピリットも、豊かな伝統もそれ自体としていつでも身にまとうことが可能な、便利な道具ではない。私たちのマインドが導き出した決断の上に、行為の上に、重なり行く日々の上にそれは現れるだろう。そして私たちはそれを日本と呼び、呼ぶごとに忘却の彼方からの声を聞く。多分、歴史ある人びととは、この過去、私のものでない過去、いまいましくも捨てがたいそれら記憶を自分のものと定めた人びとのことだ。
川上さんのHP http://www.kawakami.netfirms.com
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