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進む構造破壊、退く構造改革

2004年01月15日(木)
萬晩報主宰 伴 武澄

 小泉内閣による改革路線が当初、多くの国民から喝采を浴びていたのに、ここへ来て「何か違う」と思わせている。道路公団、郵政、年金問題。先の衆院選で各党の打ち出したマニフェストでも"改革"は"目玉商品"となった。改革なくしてマニフェストは描けないほど人口に膾炙し、改革という文字はもはや小泉内閣の専売特許ではなくなった。

 誰もが語る"改革"という文字に鮮度がなくなっただけでない。本当に改革なのかと思わせる改革もある。年金問題などはその典型である。単に財政的に現行制度が維持できなくなっただけのことで、国民に重い負担を強いるものまで改革の範疇に込められたのでは「何のことか」と首をかしげざるを得ない。

 そんなことからある日、構造改革を構造破壊という言葉に置き換えてみた。そうだ。日本でいま起きている変化は人為的な変革なのではなく、たまたま制度疲労に陥った日本的経済構造が自律的に崩壊過程にあるだけだったと考えることによって、ここ数年日本で起きていたこと、そしてこれから起こるだろうことが鮮明に見えてくる。

 小泉内閣は改革をはじめたが、改革を進めたわけではない。小泉首相は「抵抗勢力も改革に与するようになった」と改革路線を自画自賛しているが、実は抵抗勢力とみられた人々が"改革路線"に沈黙したのではない。沈黙を余儀なくされているのだ。財政のバランスシートをしばし眺めて、このまま旧来の大盤振る舞いを続けていいと考えるのはよっぽどの経済オンチとしかいいようがないからだ。

 日本的な経済構造を崩壊に導いた因子はいくつかある。

 まずは円高である。1985年のプラザ合意以降、進んだ円高は第二波、第三波と津波のように列島に押し寄せて日本的な経済構造を揺るがしてきた。まずは輸出産業をアジアに移転させる動機となった。日本の輸出産業はNIESそしてASEANへ、さらには中国へとダイナミックな移転を行ってきた。日本企業のアジア移転は輸出生産を単に迂回させただけには終わらなかった。アジアで生産された商品はやがて日本本土に還流し、国内で価格破壊をもたらした。価格破壊は企業に売り上げ減という問題を付きつける一方で、消費者は安い衣料品や家電製品の恩恵にあずかることになった。

 海外生産の拡大はまた、日本的な系列取引を崩壊させた。国内での生産では、鋼鈑、プラスチック、電子部品、さらには製造機械に到るまで系列取引で価格が硬直化していた。「購買部門」が系列から解き放たれた結果、日本企業の海外での収益構造が格段に向上した。この成果はじわじわと国内の経営にも導入された。ここ数年、高水準の収益を得ている企業群はまさにこの成果を先取りしたグループなのである。

 二番目はグローバル化の影響である。日米構造協議やウルグアイ・ラウンドによって、それまで外資の参入を阻止していた非関税障壁が次々と壊れた。外資の参入が容易になるということは国内でも新規参入が可能となる。規制緩和によって国内産業を規定していた業界秩序が崩壊したのである。

 業界秩序の崩壊を如実に示したのがビール業界だった。酒販免許の規制が緩和され、大型のディスカウント店が出現すると輸入ビールがブームとなり、続いて家庭でのビール需要は「ビン」から「缶」へと劇的に変化した。その結果、キリンビールの牙城が瞬く間に崩れたのである。戦後の業界序列がはじめて崩れたケースであろう。

 三番目は金融のビッグバンである。銀行、証券、保険の垣根が崩されたことも小さくないが、金利の自由化がもたらした影響は計り知れない。金利の横並びは十分に解消されたとはいえないが、市場金利は外部要因で絶えず変動するようになった。例えば、国債増発による公共事業の積み増しが長期金利の上昇をもたらすようになった。景気刺激のため公共事業を増やすのはいいが、金利が上がったのでは元も子もない。資本主義経済では当たり前のことが1980年代までの日本では起こり得なかったのである。それが現実のものとなった結果、景気対策として安易に公共事業を積み増すことができなくなり、財政の規律すら市場原理が律するようになったのだ。

 第四番目は地方の自立である。公共事業の負担に耐えられなくなった自治体に田中康夫長野県知事のような知事が生まれ、政府の思い通りにいかない自治体がいくつも生まれた。小泉内閣がうたう三位一体の改革は補助金と地方交付税交付金のカットと財源の地方への移譲をセットにしたものだが、多くの自治体が政府による画一的な建設行政を欲しなくなった。それだけでない。これまでの公共事業による地方負担は借金という形で地方財政を圧迫していたのだ。新たに選ばれた首長たちは選挙で政府の財政より足元の地方財政の危機を訴えた人々だったといえよう。政府に対して財源移譲を求め、それぞれの地方に独自の開発計画を求める傾向はこれからも強くなる。

 小泉内閣の出現も因子として取り上げなくてはならない。「自民党をぶっ壊す」とまで言ったが、その自民党もまた「キングメーカーの不在」「族議員の弱体化」など崩壊過程にある。小泉首相は就任時、国債発行を30兆円以下に抑えると公約し、少なくともその年度と翌年度の当初予算で公約を実現した。小渕内閣や森内閣のような大規模な景気対策は打たたなかった「がまんの財政」だけは評価しなければならない。3年間、財政出動というカンフル財がなかったおかげで、民間経済の自律的回復が可能となったのである。

 昨今の景気回復や企業業績の回復について、まだまだ疑問を呈する政治家やアナリストが少なくない。「リストラ頼み」「輸出頼み」など言い訳はいろいろあるが、企業リストラの必要性が強調されながら「リストラが進まない」と言っていたのは誰なのであろうか。それから日本はこれまでいつだって「輸出立国」であったのだから、これは言いがかりとしか言いようがない。

 日本的な経済崩壊の過程で起きているのがデフレ経済である。日本的な経済構造とはまさしく公共事業を筆頭に多くの分野ではびこる二重価格だったと考えれば、本来は歓迎すべきではないだろうか。民間の建設事業と比べて格段に高かった公共事業の談合が崩れ、カルテルに守られてきた素材の市況が内外無差別となることは結果的に日本経済を筋肉質に変化させつつあることをなぜ「デフレの危機」と煽る必要があるのだろうか。もちろんこの過程で失業率は確実に増えた。貸し渋り現象も起きた。しかし、5%程度の失業率はヨーロッパではいい方の範疇に属する。やがて2%台という完全失業率に近い状態の方が異常だったという時代がやってくるだろう。

 インフレターゲット論者たちは絶対に認めたくないだろうが、デフレ経済は構造破壊が消費者にもたらした最大の恩恵なのである。名目では経済成長率が減速しているという主張もあろうが、筋肉体質をもたらすデフレによる実質成長をもっと素直に喜ぶべきではないだろうか。サラリーマンはもはや都内ではマンションを買えないと言っていたのはちょうど10年前の話なのである。

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