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北京で貧民救済に尽力した桜美林の創設者
2004年01月07日(水)
萬晩報主宰 伴 武澄
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あけましておめでとうございます。萬晩報はあさって1月9日で7年目になります。最初の100日は毎日コラムを書きました。その後は、通信員や多くの寄稿者たちに支えられながら驚きや怒りを文字にしてきました。
インターネットはメディアに多くの影響を与えました。一番大きな影響はニュースの同時性です。新聞中心の時代には特ダネや独自ダネは半日しないとほかの新聞は追いかけられませんでしたが、いまではどこかのウェッブサイトに掲載された価値ある記事は瞬時にほかのサイトでも掲載されます。ニュースの鮮度の劣化時間が著しく短くなったということによって、極端に言えば、「抜いた」「抜かれた」というメディアに働くものにとっての最大の喜びも苦悩もなくなったのです。
このことはいいことのように思われますが、この同時性によってどこのメディアのウェッブサイトも同じような内容の記事が並ぶようになり、特色を出すことが難しくなったという結果になってしまいました。
ニュースが国境をいとも簡単に越えていくようになったということも重要です。ニューヨークタイムズもワシントンポストもアメリカ人と同じ時間に読むことができるようになりました。日本のメディアだけではありませんが、海外特派員の最大のニュースソースは地元新聞でだったことが白日の元にさらされました。
一番の大きな変化はニュースを職業としていない人々に表現の場が与えられたということです。素人といってもいい人々にも情報発信のツールが与えられたともいえます。萬晩報でいえば、園田義明さんのようにブッシュ政権の背後にあったネオコンの存在を大手メディアに先駆けて読者に伝えるという離れ業ができたのもインターネットのお陰といえましょう。ギニアの齊藤清さんは日本のメディアにとって完全にニュースの空白地帯となっている西アフリカから示唆に富む数々のコラムをものにしています。
正月休みのネットサーフィンで興味深かったのは、清水安三という人物を再発見したことです。『百三人の賀川伝』という40年前の本を読んでそこに登場する「清水安三」をキーワードに検索したら、めくるめく世界がありました。
清水は桜美林学園の創設者ですが、実は桜美林の名は米オハイオ州にあるOberlin
Collegeからとったものです。この大学は清水の留学先で思い出深い学校であっただけではなく、全米で最初の女性と黒人に門戸を開いた大学でもありました。そして八重桜の美しい町田市の学園敷地は賀川豊彦から与えられたものだったのです。
清水と賀川との付き合いは長いものでした。清水は滋賀県高島郡の出身で、同志社大学の神学部を卒業した後、北京の朝陽門外の貧民街で伝道活動をしながら女の子どもたちの自立のための学校を経営していました。崇貞学園といって裁縫などの職業訓練をしながら読み書きを教える学校でした。現在も陳経綸中学校の名でその歴史を引き継いでいます。1921年から45年まで、清水は中国人のために全精力を傾けていました。戦前の北京にいわばミニ賀川のような人材がいたのです。
戦前の賀川は中国伝道のたびに清水を訪れています。清水に貧民街に入るよう勧めたのは賀川だったのです。互いに敬愛の情を抱きあったのは不思議でもなんでもありません。清水の交友範囲は考えられないほど広く、特に作家の魯迅、周作人兄弟、五四運動の指導者胡適、中国共産党創設メンバーの中核だった李大サとは彼らが有名になる前から親しかったようで、北京の貧しい人々のために尽くしていた清水は革命を目指す中国人にとってそれこそ一目を置く存在だったのです。
その清水が終戦後、着の身着のままで帰国して、神保町でばったり賀川に出会ったのです。学校の創設を考えていた清水に「それなら町田にいい土地がある」といったのが、現在の桜美林学園なのです。ある財閥企業の別荘のようなところを借り受け、後に賀川が300万円で買い求めたそうです。
とりとめもない年始のご挨拶となりました。インターネットは時代をも超えるツールだということをこのネットサーフィンで感得しました。
一昨年11月から財団法人国際平和協会のメルマガも発行しています。賀川豊彦が59年前に設立した財団です。メルマガ「国際平和」も併せてご購読願えますようお願い申し上げます。
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