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「標語の世界」からの脱出
2003年11月22日(土)
ドイツ在住ジャーナリスト 美濃口 坦
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ある日本の新聞によると、今回の衆議院選挙は「政策の優劣で政党を選ぶマニフェスト選挙」であったそうである。ドイツで暮らす私も、今回の選挙が従来の選挙戦と趣が異なっていたことを認めることにやぶさかでない。でもA政党が三百万、B政党が五百万の雇用創出を掲げることが政策の相違なのであろうか。政策と目標という概念上の根本的区別もしないで世の中が変わったと思うのは奇妙である。
選挙後初の首相記者会見をラジオで聞かれた成田好三さんが、11月18日萬晩報の「匿名性に隠れる日本の新聞記者
」の中で 「日本の新聞記者は何も変わっていない。何も分かっていない。自分たちが置かれている立場を知らない。いや、知ろうともしない。彼らはそうしたことを理解する能力に欠けている」と書かれたのも、この事情と無関係でないように思われる。
政治文化と報道
どこの国にも固有の政治文化がある。政治家、官僚、報道の三者の絡み合いは政治文化の重要な要素で、国によって異なる。また文化は日々吸ったり吐いたりしている空気のようなところがあり意識されにくい。報道が演ずる役割はこの政治文化の在り方にとってきわめて重要である。
私は日本の政治に無知である。これは私がインターネットで日本の新聞を読んでいるだけで私の努力不足のためかもしれない。でも、私は日本の政治の分析を専門とするドイツ人を何人も知っているが、彼らも日本の政治の不透明性についてこぼす。彼らに日本の政党間の相違がピンと来ないのは、メディアでの報道の在り方と関係があるのではないのだろうか。
どこの国のメディアも長所と欠陥がある。私がよく知るドイツのメディアを例にとる。どんなテーマでもいい。医療保険などの社会保障、出産前診断の是非といった生命倫理、鉄道交通、金融問題、風力発電、外交、、、ドイツで暮らす私が誰かから調べろといわれれば、インターネットで検索して数日間集中的に主要メディアの記事を読むだけで問題の輪郭がある程度まで把握することができる。個々のテーマについてドイツの主要政党間にある政策上の対立点もまた共通点も理解できる。
日本の政治に関心を抱くドイツ人は、このようにことが運ばないことを、幾ら読んでも政党間の対立点がはっきりしないことを嘆く。なぜそうなのか。
私のにわか勉強でもドイツの各々の政党内でどの政治家がどの問題に詳しいかもすぐわかる。たいていは一つの政党内で複数いて、彼らが党の政策を決め外にむかって説明し、メディア関係者も彼らの話を聞き報道するからである。彼らはライバル政党で同じ問題を担当している政治家の手のうちをよくこころえている。というのは、彼らに討論会に引っ張り出され自分の党の政策を相手の攻撃から守りるために論拠を挙げ、ライバル党の政策を批判する機会が多いからである。こうして政党間の政策論争が煮詰まっていて報道されているために、あるテーマについて関心抱く人に政党間の政策上の対立がはっきりしている。
このような政治家を、私はメディアを媒介にして知るだけでなく、記者会見や直接に会って話を聞くことが少なくない。彼らのなかには長い間自分が担当するテーマと取り組んでいて政治家になった人が多い。反対に、日本である社会問題に関心を抱き政治家になって政策に取り組んでいても(特に野党にいる限り)マスコミからもろくに相手にされないためにやる気も失うのではないだろうか。このように考えると、報道する側はただ報道しているだけでなく、本当は政治の在り方に影響を及ぼし責任をもっていることになる。
政治家の人柄重視
日本の政治報道の特徴は、政治家の人柄や節操を過大に重視する点にあるのではないだろうか。政治家の私生活が過度に問題にされ、政治家の浮き沈み、人事問題、政界の権謀術数に大きなスペースが割かれるのも、この報道姿勢の反映である。この結果、報道全体が「戦国武将列伝」に一歩近づく。また政治家が国民のことを考えてくれることが漠然と重視されるのも、私たちが良い政治家を、昔領民に気配りした「名君」と重ね合わせているためではないのだろうか。
報道にあらわれる政治家の発言も短く情報価値に乏しいこともこのような報道の在り方と無関係でない。これも、発言が政策の説明というより、政治家のパーソナリティーを示すもの、例えば身につけているはネクタイの色と同次元で扱われているからではないのだろうか。
また同じ短い発言が繰り返されて報道されるために、発言は標語かスローガンのように響く。この標語のような発言が繰り返されているうちに、イタリア以上の巨大な財政赤字をつくってしまった政治責任も多くの人々の意識から消えてしまったのではないのだろうか。
どこの国でも、選挙がはじまれば、「スローガン対スローガン」、「政治家の顔」による票集めになる。しかしそのような選挙戦に政策論議が報道される比較的長い期間が先行する。とすると、日本の特徴はスローガンや標語ばかりが四六時中横行している点にある。
例えば、「官から民へ・民間にできることは民間に」といわれても疑問点は山ほどでてくるのが普通である。大学の政治学の筆記論文試験で「日本の現政権はいかなる観点に立って、どこまで民営化をすすめようとしているのか。他の政策に及ぼす影響に触れよ」といっ設問で、優秀な学生でも百点満点の10点もとれないのではないのだろうか。またこのスローガンをつくった人々も学生以上によい点数をもらえるか疑問である。
標語かスローガンのような発言を並べられても政党間の政策上の対立点などはっきりしない。政治報道で政治家の人柄や節操に重点を置かれている限り、また与党の政治家のほうがメディアでの露出度が高いために野党の政治家よりずっと有利である。与党はその政治家が国民の鼻につくようになれば「顔」だけかえれば済むはなしである。このように考えると「二大政党時代」が到来したなどと喜んでいられないように思われる。
重要な政策論議の報道
誤解を避けるために強調すると政策上の論争が日本にないわけではない。問題は、政党が政策上の議論に組み込まれていない点にあり、その一つの原因は報道する側が政党間の政策上の対立をおろそかにするからである。
政策論議は地味な議論である。この地味な議論を日本で政治に近い場所でいつもやってきたのは官僚である。でもこの議論は密室の議論で、報道する側は記者クラブを経由して出来上がったものとして、また発表されたものとして報道してきた。そのような発表ジャーナリズムとは別に政治家の浮き沈みを描く「永田町」からの人間臭いドラマの報道があった。
ということは、メディアのほうも、政策実現過程を相対立する(政党間の)議論として報道することに慣れていなかったことになる。また政党のほうもどこか世界観・イデオロギーというこれも標語のようなものを掲げて済まし、選挙民もこの党は平和を守ってくれるとか、低所得層の味方とかとか思って投票してきた。
選挙後の報道で二大政党に違いの見えないと叱る見解を眼にした。でもこのように思う人は、自分が従来のシステムに度の合ったメガネで政治を眺めているるかどうかを考えるべきではないのだろうか。
確かに年金を維持するために財源を税金に求めることについて日本の主要政党の間に違いはないが、どの税金をあてるか、またどこまで従来の社会保険システムをどこまで維持するかは重要な政策上の議論である。その議論が重要と思えないで、政治家に突っ込んだ質問もしないでお座なりの回答に満足するのは、結局自分が「標語の世界」から脱出できないで、本当はわからないこともわかっているように錯覚しているだけではないのか。
私はこう考えるので、冒頭に引用した「日本の新聞記者は、、、、何も分かっていない。自分たちが置かれている立場を知らない。いや、知ろうともしない」という成田好三さんの見解に本当に共感した。
美濃口さんにメールは mailto:Tan.Minoguchi@munich.netsurf.de
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