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越州龍泉青磁窯跡めぐり(前編)
2003年05月28日(水)
中国寧波市在住 岩間孝夫
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はじめに
現在私は中国浙江省寧波市に住んで仕事をしていますが、1999年4月に当地に来て以来4年が過ぎました。この間の生活で、ガイドブックにも載っておらず、地元の人々でさえもほとんど知らない楽しみを見つけました。それは700年から1700年程前の青磁の窯跡を訪ねることです。
今回は、このごろの萬晩報のテーマとは少し色合いが異なりますが、あまり知られていませんがとてもエキサイティングな中国生活の楽しみを前後二回に分けて御紹介したいと思います。先ず第一回目では、寧波の近辺にあり私がよく窯跡を訪れる越州や龍泉で作られた青磁がどういうものか簡単に紹介します。
中国青磁の始まり―浙江省は青磁の故郷
ChinaのCを大文字で書けば中国、小文字で書けば陶磁器を意味することは皆さん御存知の通りで、それほど陶磁器は中国の代表的産品であるわけですが、そのchinaの黄金時代といわれる宋の時代、陶磁器の最高峰に位置付けられ皇帝の用に供せられたのが青磁であったのは御存知でしょうか。そして、浙江省こそは中国青磁の故郷なのです。
中国での原始陶器の歴史は紀元前五千年頃始まりますが、青磁の製造はそれから約5000年経った後漢(25−220)の頃、越の上虞地方曹娥江流域で始まったとされています。
当時今の浙江省は越と呼ばれていました。現在上虞は浙江省紹興市にありますが、その近くの余姚には約七千年前に人類が稲作を行っていた河姆渡遺跡がありますので、やはりこの一帯では古くから文明が発達していたのでしょう。そしてまた陶磁器の生産に必要な条件は良い原料(良い土)、良い燃料(主に松。但し華北では石炭も使用)、製品の製造や運搬をするための水源、の三つですが、この地方にはそういった条件も備わっていました。
ちなみに1973年に発見された河姆渡遺跡はそれまでの世界史の教科書を塗り替えたと言われています。私が子供の頃には、中国では世界古代四大文明の一つである黄河文明が最初に起こり、その文明が徐々に他のエリアに広がったと習いましたが、この河姆渡遺跡の発見以後現在では、北方の黄河文明と平行して揚子江文明とも言える独自文明が江南を中心とする南方にあり、時に互いに影響を与えながら発達していったとされています。
上虞地方で中国初の青磁の製造が始まったのは決して偶然ではなく、こういった地理的、歴史的背景があったように思えます。
閑話休題 この上虞地方で始まった青磁の製造はその後徐々に近隣の余姚、慈渓、寧波、奉化、紹興、粛山など寧紹平野と呼ばれる現在の寧波市や紹興市エリアに広がっていきますが、そのエリアで焼かれたものは当時の地名を取り越州の青磁とか越州窯と呼ばれており、色はオリーブ色や灰色がかった青緑色が基調です。
またこの越州の青磁のなかでも3世紀前半から7世紀初に至る後漢、三国、西晋、東晋、南北朝など隋以前の時代に焼かれたものはその後に続く唐、五代、宋の時代に焼かれたものと造形や釉薬など作風や持ち味が異なる為、後者と区別するため古越州の青磁あるいは古越磁と呼ばれています。
この古越州の青磁こそが中国青磁の原点で、現在の浙江省にあたるエリアを中心として焼かれると共にその製造方法は中国各地に伝わり、その後数百年を経て龍泉窯(浙江省)、景徳鎮窯(江西省)、建窯(福建省)、耀州窯(陝西省)、汝窯(河南省)、鈞窯(河南省)などで独特の発展をし、華麗な陶磁の世界を繰り広げるのです。
秘色の青磁―越州青磁の隆盛と終焉
中国青磁の原点となった古越州の青磁ですが、南北朝後半(6世紀中)から中唐の中頃(8世紀後半)までいったん衰え、以前の輝きを失います。これは、その頃に江南地方で戦乱が続き社会が不安定になるとともに経済も地盤沈下したこと、燃料不足などの原因により越州窯の中心地が上虞地方から慈渓上林湖に移る過渡期になったこと、などが主な要因だと思われます。
しかし越州の青磁は中唐後半(9世紀初)に入り、慈渓上林湖を中心地とし釉薬の改良や焼成技術の向上により「秘色の青磁」と称えられた美しい色合いを持つ製品を生み出し再び発展を遂げ、一部の上林湖畔の窯は中国初の官窯として皇帝へ献上する品を作るまでになります。そして晩唐、五代(907−960)へと続き、五代の頃に作品の質量ともにそのピークを迎え、窯数は200カ所近くに達しました。
しかしながらその栄光は長く続かず北宋の頃から再び作風は荒れ始め、南宋に入り、同じ浙江省にあり北宋の頃から台頭し南宋時代に最盛期を迎える龍泉窯に主流の座を空け渡し、約1000年間続いた窯煙はやがて消滅してしまったのです。消滅に至った最大の原因は、長年の製陶活動により燃料となる松材が枯渇してしまったことでした。当時の文献には「山あれど樹木なし」と記されています。
宋代の陶磁―芸術文化の黄金時代
北宋時代(960−1126)には都の開封(河南省)に官窯が築かれたこともあり、華北地方の陶磁が一斉に大輪の花を咲かせます。青磁を焼く耀州窯、汝窯、鈞窯、白磁の定窯(河北省)、白地に黒い装飾の磁州窯(河北省)などです。
中国史上、書や絵画などの芸術が最も目覚しい発達を遂げるのが宋時代の約300年ですが、陶磁もその時代に黄金時代を迎え人類史上最も優れた作品の数々が生み出されます。
これは唐から五代十国の長らく混乱の続いた社会が安定し、商業と貨幣経済が発達し社会全体の経済レベルが向上したことや、指導者階層に純理を追求する厳正な儒教精神がみなぎり、その結果社会全体として崇高なものを尊び清純なものを愛する風潮が高まったことが大きな要因だと思われます。宋代の貴族は、実態としてはほぼ世襲制に近かったそれまでの貴族と異なり、一代限りの実力制であり、みな教養を充分身につけた読書人で美意識も高かったのです。
約170年間続いた北宋は金に追われて杭州(浙江省)に遷都し南宋時代が始まりますが、新しく杭州に官窯が築かれると青磁の龍泉窯、青白磁の景徳鎮窯、黒釉磁の建窯、吉州窯(江西省)、白磁の徳化窯(福建省)など再び江南地方の窯が鮮やかな光彩を放つようになります。 一方、北宋時代に華やかに輝いた華北の窯は、北宋官窯や定窯は廃窯となり、その他の窯も火が消えたような寂しさとなり地方の民窯としてわずかに命脈を保つのみとなりました。
南宋時代(1127−1279)に中国陶磁の中心となるのは龍泉窯です。龍泉窯は浙江省南部にある龍泉市を中心に500カ所以上の窯跡が発見されている中国史上最大の青磁窯で、五代の頃に始まり、当初は当時の主流であった越州風の青磁を焼いていましたが、この時代に「粉青」と呼ばれるとても美しいブルーの青磁を完成させます。そのブルーの美しさは雨上がりの澄んだ青空の色に例えられ「雨過天青」と称され、古来日本では「砧(きぬた)青磁」と呼ばれ青磁の最上位に位置付けられ多くの人々に深く愛されて来ました。
そしてまた南宋時代の作品で日本人として忘れてならないのは建窯の天目茶碗でしょう。
建窯は浙江省と接する福建省北部にあり、唐代に始まり、当初は龍泉と同じくやはり越州風の青磁を焼いていましたが、唐代から流行した喫茶の習慣を受け、宋代には黒釉の茶碗を専門に焼く窯として発展を遂げました。当時賞味された高級茶は白色の固形茶でしたので、茶の白さを引き立たせる黒釉の茶碗が好まれたのです。
そして南宋時代に最盛期を迎え名品の数々を生み出しましたが、その中でも神品とされ最高位に位置付けられる曜変天目は世界に四個しか伝わっておらず、本場中国にも現存せず、全て日本にあります。従ってそれらは、中国が生み出し日本に伝わり護り続けられた人類の宝、と言っても過言ではないでしょう。現在そのうちの三つは国宝に(建窯ではこの他にも油滴天目の国宝が一つあります)、一つは重要文化財に指定されています。
元代以降―龍泉から景徳鎮、青磁から五彩・染付へ
さて、南宋時代に輝かしい黄金時代を迎えた龍泉の青磁ですが、元代(1279−1368)も中頃に入ると、宋時代は俗に影青(いんちん)と呼ばれる青白磁の生産で知られ元の頃から五彩や染付などを開発し急成長を遂げる景徳鎮窯に押され気味になりました。染付は白磁の釉下に青く発色するコバルト釉で絵や文様を描いたもので、中国では青花と呼ばれています。
元王朝を築き上げた草原の遊牧民であるモンゴル民族には青磁の繊細で優雅な美しさよりも五彩や染付など派手・豪華で装飾性の高い作風の方が好まれたのでしょう。またそれは多くの製品が輸出されたペルシャ、エジプト、トルコなど西方イスラム圏の好みに対応したものでもありました。この当時陶磁器は中国の主要輸出商品だったからです。
そして明代(1368−1644)中頃には中国陶磁の中心は官窯が置かれた景徳鎮窯に移り、その一方、龍泉窯は作風を低下させながら徐々に衰退の道をたどり始め、明末清初に至り廃窯に追いこまれ約700年の輝かしい歴史の幕を閉じました。
元の時代に始まった染付はその後明代中頃以降は中国陶磁の主流となり、明代後半や清(1644−1911)の時代に景徳鎮で宋代青磁の名品が模倣されることはありましたが、いったん主役の座を降りた青磁が再びその座に戻ることはありませんでした。
このように越州から華北、華北から龍泉、龍泉から景徳鎮と、原料や燃料など自然環境の変化、政治や文化の中心の地勢的移動、権力支配者の好み、人々の生活習慣や嗜好の変化、外来文化の影響、交易相手国の好みなど、さまざまな要因が織り交ざりながら何百年という時間をかけ時代と共に主役が交代し興亡するさまは、語呂合せではありませんが、青磁の世界というより政治の世界を見るようで興味は尽きません。
そしてまた、進歩向上するだけの科学の世界と異なり、西洋クラシック音楽において18世紀初から19世紀中頃の150年間に作られた作品を超えるものが出て来ないのと同様に、陶磁器の世界においても800年から1000年も前の宋時代の作品を超えるものがそれ以来今なお生れ出て来ないことは、人間社会や精神文化の不思議を感じざるを得ません。
日本に招来された青磁―寧波から船に乗って
最後に越州や龍泉の青磁と日本との関係に少し触れておきます。
越州青磁は遣隋使や遣唐使の船で中国に渡った人などにより日本にも招来されました。また、龍泉青磁や建窯の天目茶碗も南宋以降交易船や中国へ修行に来た禅僧などにより多くの名品、優品が日本へもたらされていますが、これらが日本へ運ばれる際、主に中国の出口となっていたのが私が現在住んでいる寧波です。
遣唐使船は630年に始まり894年まで264年間に亘り合計14回(数え方によって20回)派遣されますが、当初から第7回目までは朝鮮半島沿いのルートを通り山東半島を目指していました。ところが朝鮮半島で663年に起こった白村江の戦いで親日的であった百済が敗れその後半島を支配した新羅と日本が国交断絶してからは、東シナ海を突っ切り寧波を目指すようになっていたのです。
それ以来、天然の良港を持つ寧波は中国と日本を結ぶ窓口となり、特に杭州に首都が築かれた南宋時代には多くの禅僧や貿易商人が留学や交易のため杭州の最寄港である寧波を目指して来ました。南宋後期には年に40−50隻の船が日本から来ていたといいます。
国宝・重文の数々―日本の宝、世界の宝
こうして日本へ渡来した中国陶磁の優品の数々は平安貴族、鎌倉貴族、武家、或いは江戸時代ならば将軍家や地方有力大名、豪商などその時々の権力者、有力者、大金持ちなどにことのほか愛され、伝世品として現代まで伝えられましたが、それらがいかに優れたものであり大切にされたかは、国宝や重要文化財に指定されている数が示しています。
日本で現在国宝や重要文化財に指定されている中国陶磁は国宝が8点、重要文化財が65点合計73点あります。そのうち時代別には唐6点、宋42点(北宋9点、南宋33点)、元8点、明16点、清1点です。また窯別ではやはり龍泉窯が最多で国宝が3点(国宝は他に建窯が4点、吉州窯が1点)、重要文化財は19点あり、圧倒的に他の窯を引き離しています。なお、日本陶磁は国宝が5点、重要文化財が67点、合計72点です。(注)
これからみても日本人が古来いかに中国の陶磁を、そしてその中でも特に宋代の、わけても龍泉の青磁を愛でて来たかが覗えます。また世界的にみましても、龍泉の砧青磁は日本に伝世するものが数も多く最も優れていますし、建窯は先に紹介した曜変天目を始め油滴天目など名品は日本にのみ伝世しています。
これら国宝や重要文化財に指定された作品はそれぞれ誠に見事な作品で、いくら見ても見飽きず、そして見るたびにうっとりとするような物ばかりです。それらの名品は日本では大阪市東洋陶磁美術館、東京国立博物館、出光美術館(東京、大阪)、根津美術館(東京)、静嘉堂文庫美術館(東京)などで見ることが出来ます。中国ではやはり本場の浙江省博物館(杭州)、浙江省官窯博物館(杭州)、龍泉博物館(龍泉)、慈渓博物館(慈渓)で良いものを間近に見ることが出来ます。台湾の故宮博物館は、さすがに歴代の皇帝が絶対権力で金と時間を惜しまず作らせたものだけに、中国陶磁の至宝と言われる北宋官窯南宋官窯を始め、各窯の垂涎ものの名品が数多く秘蔵されていますが、残念ながら日頃見ることの出来るのはそのうちのわずか一部だけです。(続く)
(注) 国宝と重要文化財の数については手元にある限られた資料から集計していますので細部に間違いがあるかもしれず、その際はお許し下さい。
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