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戦争がイラクに求心力をもたらすという米国の誤算
2003年03月30日(日)
萬晩報主宰 伴 武澄
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アメリカとイギリスが対イラク戦争を仕掛けて10日が過ぎた。アメリカは兵力が足りないとしてさらに10万人の兵隊を増派することになった。これまでの12万人に加えて総勢22万人の軍隊がイラクの戦場で死にさらされるのだ。
コンピューターによるハイテク戦争は兵員の損耗がほとんどない、というのが専門家の戦前の見方だったはずなのに、やはり兵隊を戦線にべた張りしないことには戦争は遂行できないということを対イラク戦争は証明してみせた。
また、イラク国民はいわれていたほど「反フセイン」ではなく、「外国の侵略」には死を賭して戦う姿勢をみせていることにアメリカ政府は驚いているに違いない。ブッシュは開戦直前の演説で「イラク解放」を訴えたが、反フセインであるはずのシーア派の蜂起はなく、クルド族が米軍と肩を組んで参戦したという話もまだ聞かない。多くの国民はたとえ国内的に反体制であってもいざ外国が攻撃してきたら一致団結するものなのである。
そんな初歩的な国民感情すら分かっていないのだとしたら、アメリカの大統領をやっている資格はない。足元のアメリカでも戦争が始まってから大統領への支持率が一気に上がったのをご存知ないのか。戦争に反対であってもいったん国家が戦争を始めれば国民の忠誠心を増すものなのである。
水と油のように相容れなかった中国国民党と中国共産党が、盧溝橋事件で日中間に戦争が始まったとたん共同戦線を張って日本を敵として戦った歴史的事実は特異な例ではなく、どの国家でも共通した国民感情なのである。
「たとえどんな専制君主であっても外国による支配よりはましである」という考え方は、民族独立戦争を経験した多くの途上国で何度も語られた真実で、民族自決という理念はまさに外国に支配されたくないという一点において強固な求心力を持っているのである。
筆者が参加しているある勉強会で、元帝国海軍士官だった樋口さんという方が「戦争に突入するとすべてのことが超法規的に行える」といった戦争論を語ってくれた。平時において最大の犯罪である殺人という行為が戦時には「戦果」として数え上げられるし、たとえ相手が民間人であっても「誤爆」の一言で済んでしまうというのだ。
まがりなりにも一国の元首を「殺害」だとか「暗殺」するなどということは戦争法規でも禁止されているのだが、今回の対イラク戦争では「フセイン暗殺」とか「フセイン殺害」といった表現が多くのメディアでいとも簡単に使われているのは超法規的雰囲気がメディアの社会にも支配的になっている証左でもある。
だから、いったん戦争が始まるとどんな崇高な哲学や理想を掲げてもほとんど説得力をもたない。まして外国軍による「解放」などというのは余計なお世話なのだ。
戦争であらためて知らされたのは、戦争当事国が発表する「戦果」や「被害」の信憑性の低さである。当事国にとっては戦意高揚のため、自国軍は最後の時点まで勝利していなければならないのは自明のこととはいえ、「イラク副首相死亡」「バスラ占領」「化学兵器製造施設発見」といったニュースが半日もたたないうちに「うそ」の発表だったということになるのだとしたら、戦争を報道する意味はほとんどない。
今の新聞やテレビ報道を埋め尽くす多くのニュースがそんな我田引水的情報であることを知りながら、それでも朝夕の新聞をつくらなければならないのがメディアに籍を置くわが身なのである。
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