ベルリン

 五、ベルリン

 ベルリン日本大使館
 ベルリンに到着して一週間後、ボースはドイツ政府に覚書を提出した。この覚書でボースは、自由インドセンターを設立しラジオ放送を行うこと、インド独立軍を組織し、アフガニスタン国境からインド国内に進攻することを求めている。当時のドイツ軍は、念願のイギリス本土上陸には成功しなかったが、四月にバルカンではユーゴを降伏させてギリシャに進撃し、五月にはエーゲ海のクレタ島を占領し、アフリカではイタリア軍を授けたロンメル軍団がイギリス軍を駆逐、リビアに進攻、イギリスの近東の生命線であるスエズ運河をうかがおうとしており、強大な勢力を誇っていた。
 しかしドイツの外務省と軍部はボースの出した「枢軸国がインド独立を呼びかける宣言を出して欲しい」という願いには、ボースが六月にチアノ外相を訪れ要請したが、イタリアも同様に冷淡な反応しか示さなかった。自由インドセンターが発足したのは十一月二日であり、二十九日にはリッペントロップ外相との会談が実現したが、その席でボースが強く要望したヒトラー総統との会談が実現するのはそれから半年も経ってからのことである。
 そのころ日本とアメリカは太平洋をはさんで一触即発の状態が続いていた。二カ月前、参謀本部から「ボースの人となりを直接観察して報告せよ」という訓令を受けていた駐独陸軍武官補佐官の山本敏大佐は、十月下句、大島浩大使とともにはじめてボースに対面した。山本大佐は、後にビルマで最高指揮官としてインド国民軍を率いて戦うボースに協力する日本軍の機関の代表として、密接な関係を持つことになるが、はじめて会った時から、亡命者にありがちな卑屈さをまったく感じさせず、インド独立への厳しい闘志を秘めながら、あくまでも教養豊かな紳士としてふるまうボースの人間的魅力に魅せられてしまった。
 ドイツの捕虜となったインド人に向けての声明(一九四二年、ベルリン)
 「過去百五十年間、イギリスは我々を貧困におとしいれ、我々から国民としての誇りを奪ってきたが、その結果、諸君は祖国の抑圧者の軍隊ために銃を執り、自らの兄弟姉妹を抑圧することを助けてきた。だが、今、諸君には自由のために戦う力を結集し、祖国の解放を助け、外国の抑圧の奴隷としてではなく、自由な人間として勝利のうちに家族のもとに帰る機会が訪れている」
 ボース、日本行きを熱望
 ボースは十日に一度は日本大使館を訪れた。十二月八日、ついに日本がアメリカとイギリスに宣戦布告した。そして日本軍のマレー進攻作戦が急速に日本軍に有利に展開していた十二月二十六日、いつになく緊張した面持のボースは大島大使と山本大佐に向かって語りはじめた。
「私は脱出に際し、もし日本がイギリスと戦っていたら、万難を排して日本行きを強行していた。今や日本軍のマレー占領は必死であり、ビルマからインド国境に迫る日も遠くはない。私はインド独立の次善の策としてドイツで二階から目薬をさすような努力をしてきた。私はなんとかしてアジアにおもむき、祖国インド解放のため、日本と手を携えて戦いたい。たとえ一兵卒としてもイギリスと直接戦いたい。どうかこの希望がかなうよう、日本政府へ取り次いでほしい」
 参謀本部からはボースの人物を直接観察し、報吉することを求めてきただけだったので、大島大使も山本大佐もボースに日本行きを勧めたことはなかったが、ボースの真摯な申し出に動かされ、ただちに東京へ伝達することを約束した。翌一九四二年二月十五日、東アジアにおけるイギリスの最大の軍事拠点であるシンガポールが日本軍の手に陥落すると、ボースの懇願はますます熱気を帯び、毎日のように東京からの返事を促すようになっていた。
 しかし、日本からは「目下審議中」という返事が来るばかりだった。それには理由があった。太平洋戦争開始にあたって、日本政府と軍部は『対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案』を作成し、この戦争の基本方針はドイツ・イタリアと協力してまずイギリスの屈伏を図り、アメリカの戦争継続意志を喪失させるように努めることであり、イギリスを屈伏させる方法としてオーストラリアとインドに政治的な働きかけや通商を破壊してイギリス本国と切り離し離反させること、ビルマの独立を促進してその影響でインド独立を刺激すると述べていた。しかしこれはあくまでも「刺激すること」であり、日本軍が直接インドに進攻することを意味してはいなかったのである。
 千載一隅のチャンス
 陸軍がシンガポール要塞を攻略し、海軍がマレー沖海戦でイギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを撃沈した。そして真珠湾攻撃の余勢をかって海軍の南雲機動部隊は四月六日、セイロン島を強襲、イギリスの空母一隻と巡洋艦二隻を沈め、小沢艦隊が商船十八万トンを沈めた。ベンガル湾の制海権を手にした日本軍は、一九四二年の五月末には当時イギリス領だったビルマの全域を占領した。
 註 セイロン インドの南にある島。スリランカ民主社会主義共和国の旧名。一九四八年、イギリスから独立した。仏教徒のシンハラ人が多い
 インド洋に日本の海軍が大挙来ることを恐れたイギリスのチャーチル首相は、五月七日、アメリカのルーズベルト大統領に、アメリカ軍が大平洋で挑発行動をとって、日本軍の動きを牽制するよう、電報を打ち、さらに七月十七日、日本軍のセイロン島占領や東部インド進攻の恐れがあり、これが実現すればイギリスの中東における基盤は根底から崩れてしまうと訴えている。当時スエズ運河一帯はドイツ軍とイタリア軍の制圧下にあり、喜望岬を回る航路が、イギリス軍の兵員、軍需物資輸送の大動脈だったのである。
 このころが、太平洋戦争を通じて、日本軍がインドに進む唯一の好機だった。ダンケルクに匹敵するビルマでの敗退の後、インド東部を守っていたのはインパール周辺に二個師団、アラカン、カルカッタ周辺に各インド師団一個ずつ、予備としてビハール州に一個師団と一個旅団があるだけだった。インド洋にはイギリス海軍はなく、防衛責任者のスリム中将も「日本軍が上陸してきたら葉巻を巻くように壊乱させられると思うと、ひどく落ち込んだ」と述懐している。
 インドの中部・西部・東部には五個師団、二個英師団、一個戦車旅団、三個装甲旅団があり、中途半端な勢力では日本軍の成功は困難だったが、国民会議の議長を努め、ベンガル出身のスバス・チャンドラ・ボースの率いるインド国民軍と共に進軍すれば、インド国中に独立への炎が燃え立ったに違いないと思われる。しかし、ミッドウェイでアメリカ軍と正面決戦の準備を急ぐ日本海軍は機動部隊を太平洋に戻してしまったのである。
 揺れ動くガンジー
 第二次世界大戦中には連合国の枠内、つまり反日本の立場で反英非暴力運動を行ってきた印象の強いガンジーも、ある時期には日本軍のインド進攻の可能性を認め、独立運動の方向を変えることを真剣に考えていた。国民会議派の指導者アザードは
「スバス・チャンドラ・ボースがドイツに脱出したことはガンジーに強い影響を与えた。ガンジーは以前いろいろな点でボースの行動を認めなかった。しかし今や彼の見方には変化が生じたのが分かった。ガンジーがボースを称賛していることが無意識のうちに戦況全体の見方を性格づけていた」と回想している。
 四月二十二日にはガンジーは
「私の確信はイギリスが整然と秩序を保ってインドを去るべきでありシンガポールやマラヤ、ビルマで冒した危険をインドで冒すべきでないというものです。イギリスはインドを防衛できません。というよりは、どれほどの力を持ってしてもイギリス自身をインドの国土で守ることはできないのです。イギリスのできることは運命にしたがってインドを去ることです。そうすれば、インドはそう下手にはやらないだろうと思います」
と手紙で述べ、五月十五日の国民会議派のプライベートな集まりでは
「日本と戦い、日本を妨害しているのはイギリスである。だから日本はイギリスと戦わんと欲しているのだ。したがってイギリスが撤退すればインドは日本と折り合うことが可能である。日本はインドに中立条約を結ぶと期待することができる。彼らがなぜインドに進攻しなくてはならないのだ? しかしながら、もし日本が我々を侵略したら我々は抵抗する。私は日本を助けることはできない。自由を獲得したら中立だ」と発言している。
 しかしこの年の六月、ミッドウェイの海戦で日本海軍が大打撃を受け、大平洋とインド洋の日本軍の絶対優勢状混が崩れだすと、ガンジーの姿勢は、アメリカ軍のインド進駐を認め、ふたたび連合国寄りに戻ってしまう。だが、この八月、インドで国民会議派が「イギリスはインドから出て行け(クゥイット・インディア)」という決議をすると、イギリスは会議派に対し大規模な弾圧を開始し、指導者は根こそぎ逮捕・投獄され、インド各地で暴動が発生する。鉄道妨害、電話線の破壊、警察の襲撃、ボースが指導者だった会議派左派を中心に行われた。軍隊出動六十カ所、死傷者二千五百七十人、投獄者数は一万八千にのぼっている。
 このころが、日本軍がインド国内に進攻するまたとないチャンスだった。後にビルマ方面軍の高級参謀となった片倉衷元少将は
「もし日本軍がインドヘ進攻する機会があったとすれば、インド洋の制海権を奪う能力があり、ビルマにも優勢な陸軍航空部隊がいた一九四二年の春から夏にかけてしかなかったろう。ただし地上部隊の四個師団は、戦闘による消耗とマラリア、アメーバ赤痢など風土病で戦力は半減していたから、大本営から兵力の増派が必要だったが」と述べている。
 ヒトラーに失望
 ベルリンのボースはこのような状況を観察し、直接的な行動に移れないもどかしさに苛立っていた。スバス・チャンドラ・ボースがベルリンから世界に向けて自由インド放送をはじめたのは一九四二年二月十九日であり、アフリカ戦線で捕虜になったインド兵で前年の十二月に編成された自由インド軍団も二月十五日正式に成立したが、戦線に出動する見通しもなく訓練に終始していた。ヒトラーの人種的偏見がインド兵の能力に疑念を抱かせ、ついにこの部隊は実戦に参加することなく終ってしまった。
 五月二十九日、半年間待ったヒトラー総督との会談が実現したが、その内容はボースを失望させた。インド人は自力で独立を達成できないと考えていたヒトラーは、「インドが自治政府を持つには少なくともあと百五十年はかかる」と言い、ボースが「ドイツのインド独立支援声明には軍事的意味より、インド国民に精神的支援を送ることに意義があります」と食い下がっても、ヒトラーは「現段階ではインド問題に関する声明を出しても意味はない」という考えを曲げようとはしなかったのである。
 日本との連携へ
 すでにこの年の二月十七日、シンガポール陥落のインド兵捕虜を結集し、モハン・シン大尉を指揮官にインド国民軍が正式発足し、東南アジアのインド人によるインド独立連盟が活動をはじめていた。日本軍の対インド工作を担当する藤原機関の藤原岩市機関長は接触を深めるにつれ、彼らがスバス・チャンドラ・ボースのアジア招致を熱心に望むのを知り、大本営に対し「インド人の間のボースヘの敬慕と期待はほとんど信仰に近い。ぜひ早急に招致を実現されたい」という要請を行なっていた。
 日本の陸軍、海軍、外務省がボースの扱いを検討し、日本招致が原則的に決められたのは八月だった。長い時間がかかった一つの理由には、ラス・ビハリ・ボースの存在があった。やはりベンガル出身のラス・ビハリ・ボースは古いインド独立の志士で、日本亡命にあたっては民族主義運動家の頭山満の後援を受け、官憲の追及を避けるため、新宿の中村屋の店主相馬愛蔵の娘と結婚し国籍も日本に移していた。ビハリ・ボース自身はチャンドラ・ボースの声望と力量を十分承知しており、チャンドラ・ボースが来日すれば喜んで独立運動の指導を委ねることを明言していたが、参謀本部内には運動の分裂を懸念し、「わざわざドイツからチャンドラ・ボースを呼ばなくとも『中村屋のボース』で十分ではないか」という声が強かったのである。
 大島大使はただちにドイツとの折衝をはじめたが、チャンドラ・ボースの宣伝価値を知るドイツ側はなかなか首を縦に振ろうとはしなかった。大島大使はボース自身がヒトラーと直接談判することを勧めた。ボースの強硬な姿勢を煙たがっていたためか、ヒトラーは即座に日本行きに同意した。問題は日本に行く交通手段だった。ドイツ占領下のウクライナからソ連上空を夜間飛行し内蒙吉に着陸する案は、日ソ中立条約を結んでいるソ連上空を交戦国のドイツ機が飛ぶことは背信行為になると考えた東条首相の強い反対にあい、イタリア機でクレタ島からインド洋を横断してマレーに飛ぶ案は航空支援施設が不安で見送られた。結局、ドイツのUボートに乗り、軍事技術交換のためインド洋上でランデブーする日本の潜水艦に乗り移る案が決定した。この計画には細かい打ち合せが必要で、決行が実現するのは翌一九四三年二月になってしまった。
 再会そして別れ
 ベルリンに到着したボースの生活の唯一のうるおいは、再会したエミリー・シェンクルとの家庭生活だった。提供されたシャルロッテンブルグの元アメリカ武官邸は、ボースの事務所を兼ねていたので、エミリーは人目に着かないように、奥まった部屋で暮らした。四二年二月、エミリーから妊娠を告げられたボースは生まれてくる子供のためにも正式な結婚を決意した。しかしオーストリアはすでにドイツ帝国に併合され、ドイツ女性とアーリア人種以外の男性の結婚を禁止する「民族純血法」が厚い壁となった。
 ボースは怒りに燃えたが、エミリーは冷静だった。ドイツ政府との無用な摩擦を起こすことはボースにとって不利益であり、インドの人々の感情を考えれば、ふたりの結婚は独立運動とボース自身によい結果とはならないことを述べ、生まれてくる子供を自分ひとりで育てる決意を告げた。ボースはせめてものエミリーヘの思いやりとして、ハッサンら二人の副官を招いてヒンドゥー式の互いに花輪を交換する簡素な結婚式を挙げた。エミリーは子供を産むため六月ウィーンに帰り、十月女の子を出産し、アニタと名付けられた。ボースはその年のクリスマスに母子をベルリンに招き、つかの間の、最初で最後となった親子三人の水いらずの生活を過ごした。
 ボースとエミリーの結婚はドイツにいた同志のほんの一部しか知らず、アジアに来てからのボースは一言も周囲に洩らしていない。独立運動の指導者としての立場を考慮したためであろう。なおインド独立後の一九六一年、チャンドラ・ボースのたったひとりの子供であるアニタ・シェンクルは父のゆかりの地であるカルカッタを訪れている。


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