小沢征爾について その21999年03月15日(木)Silicon Vally 八木 博
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前回は、斎藤秀雄と言う小沢征爾の先生についてまとめました。今回は、小沢征爾の家族について、知る範囲でまとめてみたいと思います。小沢征爾は1935年、満州の奉天で生まれています。その時の父親の行動などは、当時の日本人の思想とも深く関わっており、その活動は小沢家の人々との活躍とは今日的に見ると、相反するようなところが見受けられます。いくつか私なりに検証してみたいと思います。 小沢開作というのは、小沢征爾の父親です。歯科医師でした。当時の満州国は、関東軍が幅を利かせていて、改作は時の陸相板垣征四郎と、石原莞爾関東軍参謀に心酔し、この両名から1字ずつもらい、1935年に生まれた小沢家の三男に征爾と名前をつけたと言います。 そして彼自身は、1928年に勃興する中国ナショナリズムに対抗して、邦人で同年に満州青年同盟を結成して、満州、河北で滅共思想戦を提唱し、満州国作りを、民間から支援していた経歴の人です。(現代日本人物辞典 朝日新聞社)どうやら、かなり民族主義的な人だったようです。そして、開作は太平洋戦争が始まる前に日本に帰国し、戦争中は立川に住んでいたそうです。そして1970に亡くなります。 小沢征爾の母親は、さくらと言う名前の人でクリスチャンであったそうです。日本に戻ってからは母親の指導で4人の兄弟たちで、讃美歌を良く歌っていたと言います。そして、家が戦後貧しかった時でも、ピアノを手放さずに征爾にレッスンを受けさせていたそうです。 そして、家庭には笑いが絶えなかったと言う。父親の経歴と比較してみると、やや違和感があるけれども、これは「僕の音楽武者修業」に出てくる内容です。 四人兄弟の長男は克己は彫刻家(故人)で、二男俊雄は、ドイツ文学者で筑波大の副学長を勤めた学者、そして弟の幹雄は俳優ということで、芸術や文学の関係の血筋が濃くでています。その意味では、個人個人の個性を伸ばすことが重要な分野であることは、間違いないと思います。 もちろん、この乏しい情報だけで私の判断などと言うものは当てになりませんが、信念を持って自分の道に進むことが、自立して生きる上で重要なことを表わしているのではないかと考えてしまいます。 きっとそうだ、信念を持つことと、自分を磨くことを同時に行うと、個性のある人間が育つのではないかと思いたくなります。あえて、こじつけてしまうと、父親の信念を受け継いだので征爾は音楽の分野の中で、指揮者の道を選んだと言うことがいえるのかもしれません。これはあくまでこじ付けですが。 家族はあまりTVなどには出てこないけれど、征爾は大変家族を大事にしていると思います。ボストンに住みながら、日本の家族への配慮を欠かさない姿をNHKの番組で見たことがありました。これは、彼自身の生い立ちから体得したものなのかもしれないけれど、日本の一般的な家庭よりも、家族の中の親密度が高いように見えました。 それでも、世界中を飛び回る彼の忙しさからすると並大抵のことではないと思うけれど、一瞬一瞬を大切にする姿勢をとても強く受けます。 そして、地元(現在はボストンですが)に根を下ろしながら活動する、世界的指揮者という姿が出てくるのです。これは、矛盾するような話ですが、ローカルでありながらグローバルということを表わしていると思います。 これもまた、こじ付けと言われるかもしれませんが、インターネットはグローバルでありながらローカルな面を持つと思います。このインターネットの時代に小沢征爾が活躍をすると言うのは、何やら偶然ではないような気がします。この二面性が、矛盾していないと言うことを理解すると、毎日の生活の中から、広い地球を意識した行動と言うのが生まれるように思います。
■お詫び 前回、徳永二男さんが亡くなったと書いてしまいましたが、これは私の誤りで二男のお兄さんである兼一郎氏がガンで亡くなったことの誤りでした。大変うかつな間違いをしまして、申しわけありませんでした。ここに慎んで訂正いたします。また、この件で読者の方々からも沢山のご指摘メールを頂きました。 中には、二男氏が飲み屋に行っている!というリアル情報をお送りいただいた方もありまして、インターネットの情報の広がりを感じることも出来ました。ご指摘いただきました方々には、この場をお借りしまして御礼申し上げます。(週刊シリコンバレー情報 Vol066より転載)
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