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成長途上の日本のマスコミ社会

1998年9月29日(火)
市原 春巳

市原さんへ萬晩報へ

 今の日本は私たちの目や耳に入ってくるだけでも、たくさんの問題を抱えています。政治経済的なこと、教育文化的なこと、科学技術的なこと。どれをとっても、解決不能な問題があって、何が原因なのか、どうすればよいのか分からないことだらけといった感じがします。そういう日本の状態をひとことで言うと、「若さゆえの成長途上の社会」です。では対極にある成熟した社会とはどんな社会でしょう。私は外国に行ったことが一度もないので想像の域を出ませんが、ヨーロッパのそれも過去に発展して今は静かになった国々ではないかと思います。

 見てみたい成熟社会の日常生活

 それらの国々は100年以上も前に、すでに日本のような時代を経験しています。国外に観光で遊びに行く日本人はたくさんいますが、『成熟した社会』を見つけに行く人は少ないような気がします。私が外国へ行って見てくるとすれば、史跡や観光地やリゾート地よりも、ごくありふれた日常の人々の暮らしを観察してきたいと思います。路地に意地悪な猫よけのペットボトルが置いてあるのか、テレビは24時間たれ流しなのか、日本と同じように低俗なのか、コマーシャル・広告は街に氾濫しているのか、家の中は物で埋まっているのか、子どもは勉強ばかりさせられているのか、・・・などなど。

 そのような視点で考えた結果が、日本はまだ「成長途上の社会」ではないかというわけです。政治経済、教育文化、科学技術。どれをとっても、「成長途上の社会」が当てはまりそうなので何回かに分けて述べてみたいと思います。

 マスコミが堕落した仕組み

 成長途上の社会「マスコミ」(教育文化公害の一因として)今のマスコミの異常な姿は、神戸の少年の犯した事件によって非常にはっきり映し出されたようです。その姿は狂気とも言えるような醜い姿でした。かつて戦争の実態を国民に知らせなかったマスコミは、真実に近づけなかったという意味で同じ道を辿っているように思います。それは、35日間も毎日犯人捜しで大騒ぎをしながら、結果は全く見当外れだったこと。

 そして、それまで馴れ合いを演じてきた警察からも(情報を貰えずに)裏切られたことです。この事件によって真実を知るためのよりどころであったはずのマスコミがますます信用できないことを強く印象づけました。そして今や思慮分別をなくした下劣な人間のように堕落してしまったのです。どうしてマスコミがこのように堕落したのでしょうか。その仕組みについて述べます。

 マスコミも同業他社が多くあるため、競争の原理が働きます。つまり、他社よりも面白いネタを探すことが至上命令です。だから事件を起こした個人や会社・役所、芸能人、スポーツ選手・・・彼らがターゲットになります。しかし、過熱した報道合戦に閉口して彼らも対抗手段を取ります。「コメントを差し控えたい」「言う立場にない」「何も聞いていない」「取材お断り」ということによって、マスコミをシャットアウトして『見せない』『教えない』『言わせない』ようになってしまいました。

 しかし、マスコミもこれでは記事にならないため、デスクからげき檄が飛びます。現場では何とかして紙面を埋めようと必死になります。(恐らく20代から30代の若い)彼らはマスコミという、大義名分はあるが孤立した集団となって、流言蜚語を追いかけてあっちへ流れたかと思うとこっちへ押し寄せるといった、理性を失った状態になっていきます。「仰天」「唖然」「呆然」といった、刺激ばかりで考えることを拒否した言葉が毎日のように登場する(これは今の総理大臣も使うようになった)のは、その端的な表れです。

 「赤信号、みんなで渡れば・・・」の悪循環

 しかし、面白いことにある社だけがおかしいのではなく、すべてのマスコミが押し並べておかしいのです。ここが重要なところなのですが、みな同じであれば責任を取らなくてすみます。「赤信号、みんなで渡れば・・・」という逃げ口上によって、自分だけが責められないように、仕事を取り上げられないように守るのです。しかし、社会に対してこのような信用を失う行為が繰り返されているため、マスコミはすでに社会のあちこちから締め出しを食っています。ところがそれでは記事が作れないのでますますおかしな行動に走るという悪循環が起こります。

 日本のマスコミはこのようにして世界中に土足で上がりこんでいます。いまに国内ばかりか世界中のヒンシュクを買うことになるでしょう(すでにペルーで恥をかきました)。最近の記事でジャーナリストの嶋信彦さんはマスコミの政治報道について同じように書いています。

 この集団の中でもしも「おかしいぞ」「違うんじゃないか」「確かめてから記事にしよう」などと言い出そうものなら、企業や役所・政党から「あなたの社の取材はお断り」と言われたり、同業他社に仲間はずれにされるのは明らかです。例えば共産党の機関紙「赤旗」が役所や議会の暗部を知っていても何も言わないのと同じ事です。かつて「赤旗」は商業新聞を取らなくてもこの新聞だけで済むようにという方針がありました。もし「赤旗」が体制批判にこだわったら交通事故の記事一つ書かせてもらえないでしょう。新聞として成り立つためには、主義主張を犠牲にしてでも、周りと歩調を合わせていくしか方法がないのです。

 ひたすら命令どおりに仕事が管理職への道

 個人のレベルでも同じです。こうした矛盾に何も気づかずに、ひたすら命令どおりに仕事をする人はやがて管理職になるでしょう。勿論、理性のかけらもなく、積極的に狂気へ荷担する人は言わずもがなです。しかし、大部分の人は生活と自らの地位を守るため、何も考えないか、また理性はあっても半分ぐらい捨てて昇進の道を歩くのです。しかし、悩む人はどうでしょうか。上司から取材の命令を受けても「そこまで個人のプライバシーに侵入してはいけないのじゃないか」とか「警察はどうも嘘を言っている」とか「社の方針であっても私には間違った報道はできない」などと考えて行動したら、間違いなく昇進の道は閉ざされます。あるいはそれを覚悟の上で深みにはまることは、罪を犯すことになると考えて仕事を控えめにします。

 こうして自ら日の当たる道を捨ててしまうかもしれません。ついしょう追従できずにこの仕事から足を洗う人もいます。極端な場合、罪の大きさに耐え兼ねて自殺することもあります。自殺しなくとも死にたくなるほどつらいと思う人もいるはずです。こういう善良な大人はたくさんいると思いますが、善良なだけでは現状を変える力にはなりません。というのはこれら善良な人々が落伍して、反対に無分別な人や他人を押しのけて偉くなろうとする人や、すすんで堕落番組を考える人が優位を占めるからです。また自分がマスコミの堕落に荷担しているなど、夢にも思わない人もいます。

 大衆に迎合しない時代は来るか

 以上、私はマスコミ全体が構造上の問題を抱えていることを示しました。ではこのまま限りなくマスコミは堕落していくのでしょうか。私はそうは思いません。しかし、こんなことをしていたら駄目だぞ、というようなシグナルはすでにあります。我が家ではテレビをあまり見ません。必要な番組だけ見たらすぐ消します。週刊誌や写真誌、スポーツ新聞も買ったこともありません。会社でもスポーツ新聞を読むような人は少数派です。低俗な話題に触れないという暗黙の了解があります。これもシグナルの一つです。

 やがて日本の人口が今の半分ぐらいになれば、マスコミが理性を取り戻す大きな変動というか、変革のうねりのようなものが来ると思います。良いものが残り、粗悪なものは淘汰される。そして、読み手に安心を与え、事実を提供する新聞、良い記事を控えめに読ませる月刊誌、大衆に迎合しないテレビ、レベルの高いラジオ、というような時代です。テレビは各局が時間を分担して放送するし、子どもや若者を相手にばかり(番組を)作らなくなると思います。子どもは大人の作ったものを対等に享受する必要はないからです。大人の新聞を子供向けに作ったらおかしい(から子供向けの新聞がある)のに、今はテレビやラジオはいっしょくたになっていて、誰もそれを不自然だとは思わないのです。

 ところで、私に分からないことが一つあります。それは、次から次へと似たような番組を作り続けていて、「再放送」という印のついた番組が少ないですね。どうして過去の作品の中から、良いものを選んで繰り返して提供しないのか、という疑問です。例えば伝統の巨人阪神戦のなかでもっともエキサイトした時の放送、テーマ音楽が忘れらられない西部劇「バットマスターソン」、30年前、実川延若という人が主演して伊達騒動を描いた山本周五郎の作品「樅の木は残った」、映画化するまえのテレビの「寅さん」はもう一度見たいと思いますが、チャンスはないようです。

 新しいものを作ればお金がかかります。再放送を全体の2分の1ぐらいに増やせば良い番組にもっとお金が使えます。古いものを嫌う青少年からテレビを遠ざけることにもなって、一石二鳥だと思うのですが。認可を与える役所が、「過去の番組から良いものを50パーセント含むこと」という規制をすれば、それだけでかなり改善できると思います。いかがでしょうか。(学習研究社GTSカスタマサービス室長)

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