この作品の草稿は97年春に仕上がり、殴り書きの状態のものを数人の知人に読んでもらいました。
内容がパソコン業界を揶揄しているため「マイクロソフトに逆らうような本を出版してくれる会社はないぜ」という否定的な意見や、「こんなの小説じゃないよ。やめろやめろ」という厳しい批判をいくつも浴びました。
その後わたしは、出版事業もしているソフトウエア会社の社長に作品を読んでもらい、お目にかかる機会に恵まれました。彼がいうには「半可通でパソコン業界をおちょくると怪我のもと。君は小説らしい小説を書くべきだ」ということでした。言葉を返せば、出版するに値しないという判断だったのです。
かくして、この作品は1年近くの間、ハードディスクの片隅に追いやられていました。
「本にしてもらえないのなら、インターネットで公開しちゃえ」といってくれる人もいましたが、それは口惜しいと思いました。なぜなら、まるでスレイヴが<プロの編集者の眼鏡にかなわない低レベルの作品>と宣言しているようなものだからです。
しかしわたしの考えは半分間違っていました。
結論を先に言うと、私が今回の出版で気付いたのは、作品を最終的に評価するのは、出版社(=加工流通業業者)と、読者(=消費者)、自分の3者であるという当たり前のことでした。
たとえば、パソコンで使用するソフトウエア。大手ソフトウエア開発会社が販売するものが必ずしも優秀だとはいえないことを、わたしたちは経験的に知っています。日曜プログラマが作った秀作が大手メーカーの商品を脅かすことは珍しくありません。巨大なプログラムは高機能なぶん、習熟に時間と労力がかかるうえ、バグが紛れ込んでいることも少なくありません。
プロ対素人のせめぎ合いが続くうちに、プログラムの世界はいつしか、企業のパッケージソフトと、フリーウエアが両立するようになりました。
では、文芸の世界はどうでしょうか。
ご存じの通り文芸の世界には文壇があり、そこでは権威あるセンセイたちとエリート編集者たちが、日本文学の芸術性や純粋性(?)を守っています。むろん、文学新人賞のような登竜門はいくつもありますが、素人作品を評価するのはプロ編集者と作家たちに限られています。彼ら彼女らから「ダメ」の烙印を押された作品は、おそらく多くの人の目にさらされることもなく、机のひきだしのゴミ屑になります。フリーソフトのように日曜作家が割り込む余地はありません。
それに、いくらインターネットが普及したとはいえ、自分の小説をWEBページで公開しても、「●●賞受賞」などの権威付けがない限り、素人の作品を読んでやろうという暇な人は多くないでしょう。これがフリーウエアとの大きな違いで、文芸作品は直接的にパソコンユーザーのお役には立てないのです。
結局、プロ編集者から相手にされない作品はダメなのか−−。わたしは失意の中、スレイヴを1年ほど、机のひきだしならぬハードディスクの隅っこに追いやっていました。
そうこうしているうちに、偶然、わたしはある編集者に出会いました。その人はスレイヴを高く評価してくれました。自信を持つよう励ますかたわら、推敲作業も応援してくれたため、書き殴りの状態だった草稿がようやく小説らしくなりました。
それを知人や新聞社の学芸部デスクに読んでもらい「おもしろい」と太鼓判を押してもらいました。
そしてまもなく、わたしはポット出版にスレイヴを持ち込む機会を得ました。今度は少々自信を持っていました。予想通りポット出版からの手応えもよく、2年近くの歳月を経てスレイヴが紙の本になることがあっさり決まったのです。
●紙の本が出る前にネットで公開
わたしはポット出版の沢辺均社長に、ある申し出をしました。それは、この作品を紙の本として流通させるだけではなく、電子の本としても流通させる約束を取り付けようとしたのです。つまり、スレイヴを、パソコンのプログラムと同様、著作権フリーにするという要求です。
なぜそんなことをしようと思い立ったのか。それは、従来の権威にあえて楯突き、出版界と作家たちの商慣行に風穴を開ようと考えたからです。
先ほども書きましたが、文芸の世界はソフトウエア業界のように乱戦模様ではありません。偉い作家と有名企業の編集者が権威を保っています。
そして、作家のタマゴたちは彼らが作ったルールに粛々と従っています。そうしなければ、作家になれる可能性はほとんどないからです。なぜなら、日曜作家たちの作品は、権威ある人たちに「ボツ」にされたら、それで終わりだからです。
日曜作家たちが書いている作品のなかには、きっと良い作品も含まれているはずです。しかし、新人賞等の関門の場で、権威ある人たちに、ろくすっぽ目も通されず、ミソもクソも一緒に捨てられてしまっては、どうにもなりません。
しかも、文芸誌の新人賞のなかには、本来作者が持っているはずの映画化やドラマ化などの権利を奪っているものまであります。ほんらい作家のための権利である著作権が、出版社の利益を守るための権利として使われている好例といえるでしょう。出版社が著作権者と独占契約をするために、著作者が自分の作品を自由に扱えなくなるという不自由も生まれます。
ですから、わたしは今回のスレイヴを、あえて著作権フリーにすることで、出版社の権利を一部奪い取ってやろうと考えたのでした。
著者が著作権フリーにするというのは、ある意味で捨て身の戦術です。著作権フリーの小説は、いわばフリーソフトウエアと同じ位置づけなため、作家には1円の原稿料(印税)も入ってきません。しかし、スレイヴを出版することができるのは、ポット出版だけではないというスジもできます。
今回の例でいえば、第三社がさらに素敵な装丁で出版することもできますし、Webデザイナーがカッコイイ電子の本に作って公表することも可能です(希望社はメールください)。現に、わたしはポット出版から紙の本が出る前に、Web上でテキストファイル版とHTML版の2種類のスレイヴを公開しました。それらはボイジャージャパン社の青空文庫にも収録(リンク)されました。
ただ、誤解していただきたくないのは、わたしはべつにポット出版とケンカをしながら作業を進めてきたのではないということです。むしろ沢辺社長は、今回の試みを好意的にみてくれていて、アドバイスまでしてくれました。本の価格から印税分を差し引き、値段を安くしてくれました。きっと彼も、出版界の古いしきたりについて、わたしと同じような疑問を覚えてくれているのかもしれません。
●電子時代のあたらしい作家像
電子時代になって、ワープロやパソコンで作品を書く作家が増えていると聞きます。しかし、プロの作家たちや大手の編集者たちは、従来の<作家−出版社>の商慣行を守り続け、従来の「権威」と「紙の本」にこだわり続けています。
スレイヴを最初に評価してくれた前述の編集者は、世間では腕っこきと呼ばれているひとではありませんでしたが(失礼)、わたしはその人の力量にすっかり舌を巻いた経験があります。大作家・敏腕編集者と呼ばれる人たちの能力は、おそるべきものがあるのでしょう。
しかし、いやしくも文芸を志す者は、そうした権威ある人たちの敷いたレールの上を歩いていていいのでしょうか。文芸作品を書こうとするものは、原稿料が欲しいから書くのではありません。権威がほしいからでもありません。できるだけ多くの人に読んでもらいたい−−その欲求が、作者にペンを握らせ、キーボードをたたかせるのです。
なによりも、そうした権威に逆らうことが、新しい作家たちに求められているのではないでしょうか。世の中のあらゆる権威から一歩距離を置き、あるいはそうした権威を嗤ってみせる。アーティストにはそれくらいの余裕があったほうがいいと、わたしは思うのです。
電子ネットが普及したいま、小説家のタマゴたちは、自作を発表する機会を得ました。それは、まだ従来の紙の本の持つ力にはかないませんが、ネットは文学を志す者にとって大きな追い風です。「応募作品は未発表に限る」などという理不尽な条件を示した文学賞に毎年のように応募する従順さと我慢強さがあれば、パソコンとフリーウエアを少し勉強して、どしどしネットで公表してはいかがでしょう。
優秀な作品がネットでどしどし公開され、それらが著作権フリーであれば、出版社は競っていい本を作る努力を迫られます。ひとつの作品めぐって、複数の出版社が競って良い本(紙も電子も)に作るという競争も活発になるでしょう。そして、パソコンのプログラムの世界で見られたような乱戦時代に突入し、読者も、従来の権威には縛られず、作家のタマゴたちの作品に目を向けるようになるでしょう。そんな希望的な予感をわたしは抱いています。
このたびのスレイヴは、結果的にひとりの編集者のアドバイスがもとで、紙の本が出ることが決まってから、電子の本を自分でネット上に公開するという順序になりました。しかし、フリーテキストの文芸作品が先にネット公開され、それを見た出版社の編集者が「本にしたい」と願い出る時代がやってくるかどうか。だれにも予測が付かないからこそ、やってみる価値はないでしょうか。
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