「特別な消費社会」を必要とした孤独な農民たち−米通信販売史(1)1998年06月27日(土)アジア国際通信 神保 隆見 | |
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南北戦争後、アメリカへの移民が激増した。ヨーロッパ各国からの農民がそのほとんどであった。 これら農民達が味わった「天から地への重力を一身に引き受けざるを得ない『孤独感』」は、「水平線の満ち溢れた世界観を共有する日本人」には決して理解できない性格のものであろう。孤絶した環境に耐えなければならなかったアメリカの農民達にとって「通信販売」のカタログが果たした役割はバイブル以上のものであった。
「カタログ通信販売」に「妻を求める」注文も またある農民は「どうぞ私に良い妻を送って下さい。良い主婦で、家事がすべてできる女性でなければなりません。また背丈が5フィート6インチ,体重が150ポンド,皮膚の色は薄くても濃くてもいいですが、黒い髪の毛と茶色い瞳の女性でなければいけません。私は45歳で、6フィートの背丈があり、容貌は良いといわれています。髪の毛は黒く、瞳は青色です。大量の家畜と土地を所有していますが、独身生活に飽き、いっそう楽しく居心地の良い生活をしたいと望んでおります。どのようなことをしていただけるかお知らせ下さい。お願いします」。 ワード会社はこれらを「変人の手紙」などと処理したりはせずに、「郵便で妻を選んだりするのは賢明なことではない」と忠告する一方、「良い奥さんを見つけたら、衣服や家庭用品が必要になるでしょう。その節は十分にお役にたてることと思います」と付け加えた。19世紀後半に、大規模なアメリカの鉄道網は他の諸要素と結びついて、遠隔地の農民やその家族を新しい消費社会に引き入れていった。 これを達成したアメリカの"新しい制度"が「カタログ通信販売」であった。 カタログによる小売り販売を意味する「通信販売」(メール・オーダー)という表現は、20世紀初頭までに一般に用いられるようになったアメリカ産の言葉だった。この国の鉄道の中心地シカゴは、広大な農村の後背地に進出する際の自然の要地であり、巨大な全国的規模の「不在販売企業」の首都となった。
客の手紙にきちんと目を通し、客からは心のこもった返信が届いた 初期の「カタログ」には、創立者や、会社の幹部、さらには個々の部門の買い手の写真が載っていた。これらの人々は、商品に対するカタログの保証を裏書きする役割を果たしていた。客はこうした「容貌の立派な人々」と取引できて、どんなにうれしいかを手紙に書いて寄越したりした。 ワードは客からの通信にきちんと目を通した。かつて植民地時代には、南部の農園主がロンドンの問屋に書物や衣料を選んでくれるよう手紙で依頼したり、中には、適当な妻を送ってくれるよう頼むことも時たまあったように、今や遠隔地の農民はあらゆることをワード氏に依存するようになっていた。 赤毛の細君の誕生日の贈り物に帽子を選んでくれるようワード氏に頼んだ夫もおり、また夏の下宿人を見つけてくれるよう依頼する女性客もいた。 客の中には、なぜ最近ワード氏に手紙を書かなかった説明しなければいけないような気になる者もいた。 「秋以来なぜ私が何も注文してこなかったのか、貴殿が不思議に思われているのではないかと推察しております。実は牛に蹴られて腕が折れてしまい、妻も病気にかかり、医者に治療費を払わなければならなかったからです。しかしお陰様で現在では支払いも済み、私たちはすっかり良くなり、それに丈夫な男の赤ん坊まで生まれております。それでどうか29b8077番のフラシ天のボンネットを送って下さい。…」 この人なつっこい客は、心のこもった返信を受け取った。それには腕の骨折の見舞いと奥さんが全快したことへの喜びの言葉、息子さんが成長して立派な人になるだろうという祝福の言葉が書かれ、ボンネットの注文の件は承知した旨を伝えるとともに、「蹴り癖のある牛のための器具をカタログに載せてあるのでご覧になるように」とつけ加えてあった。
カタログは木版のさし絵で魅力的に 1872年、ワードはシカゴの貸馬車屋の2階を店にして、注文の説明を記載した1枚の商品価格表を発行した。2年も経たぬうちに、価格表は8ページの小冊子になり、次いで72ページのカタログとなった。 うちわ、パラソル、便箋、針、刃物類、トランク、馬具、その他多くの商品について、ワードは仲介業者を排除することにより40%の節約を約束した。カタログはますます厚くなり、同時にさし絵などによりいっそう鮮明で魅力的になった。 1880年代ごろには、ほとんどすべての商品について木版のさし絵がついた。2400ドルの資本で開業してからわずか10年後の1883年に、カタログには50万ドルにのぼる商品が満載されていた。1884年度のカタログは240ページに達し、ほぼ1万項目の商品を載せていた。
「グレンジ」への正式な供給機関に 「グレンジ」は1867年に結成され、「独占体」と闘い、仲介業者を排除することにより、「農民が購入する商品の価格を引き下げること」を目的の1つにしていた。ワードの商売はこの目的に完全に合致していた。 見知らぬ者が経営する商店から、まだ目にしていない商品を農民に買わせることは、農民の購買慣習に革命的変化を起こさせる大仕事であった。村の古いなじみの店から、そこにある物を十分に吟味して買うのが農民の習慣になっていたからである。つまり、アメリカの農村部に新しい消費社会を創り出すことを意味していた。そのためワードは、友好的な信頼感を作り上げるためのあらゆる努力を払った。 客が売り手を信用しなければならなかったように、会社も会ったことのない客に信頼を置かなければならなかった。遅滞ない返金、品物の交換など、会社は消費者の友人であることを各人に繰り返し確信させるために努力を払った。
「特別な消費社会」を必要とた孤独な農民達 アメリカの農民は生活のいくつかの事情により隣人と近接して住むことが困難な傾向にあったため、「特別な種類の社会」を必要としていた。例えば,1862年の自営農地法により、開拓者は土地の所有権を完全なものにするために5年間その土地に居住することを要求されていたが、これはアメリカの農民の生活に、村落に住み、毎日耕地に出かけていく旧世界の農民の生活とは非常に異なった性格を与えた。 『ノースウェスト・イラストレイテド・マンスリー・マガジン』誌の編集者であるE・V・スモーリーは1893年、次のように述べている。 「これらの人々は陽気な小さい農村から来た。故郷の生活は困難で苦しかったが、孤独ではなかった。教会や学校があり、青い入江には漁船が浮かび、高くそびえ立つ緑の山脈や雪の草原を見渡せる、ノルウェーのフィヨルドの白い壁と赤い屋根の村落から、ダコタの平原の孤独な丸太小屋に移住したことがどれほど大きな変化であるか、ちょっと考えてごらんなさい。多くのスカンディナヴィア系の人々が精神的均衡を失ったとしても驚くにあたらない。気候や地形により孤独はいっそう強められ,耐えるのが困難にされた。 …ここでは短い暑い夏の後に,長い寒い冬が訪れ、自然の中に思考を刺激するようなものもほとんどなくなってしまう。…厚い氷の下で小川の流れも聞こえず、雁や野鴨が南方に去った後は鳥もいなくなる。死の静寂が広大な自然をおおい包む。それが破られるのは建物や裂け目を求め、そこから乾いた粉雪を吹き込んでくる暴風が荒れ狂っている時だけである。 農場が遠くかけ離れており、また人々に同質性が欠けているため、隣人の訪問といったことはあまりない。彼らは語り合うべき共通の過去がなく、この新しい土地に来たときには互いに見知らぬ他人であり、仕事の際にもあまり一緒になることがない。…アメリカ人とは種々の異なった国より来た人々から構成されているのである。…新しい平原諸州の農夫と彼らの妻の間に,精神異常の状態が驚くべきほど多く発生している」。(続) アジア国際通信 アメリカ特集 5 (NO.167,97/6/1)から 神保氏のホームページhttp://www.geocities.co.jp/WallStreet/2070/ |
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